SSブログ

『科学的とはどういう意味か』 [☆☆]

・大勢の人が非科学的な思考をすれば、それが明らかに間違っていても、社会はその方向へ向かってしまう。ファッションの流行のように、個人的に避けられるものは良いけれど、エネルギィや防災の問題など、すべての人の生活に直結するものだってある。

・特に国内における情報の多くが、「涙と人情」に流された感動ドラマを作ることに終始し、「まずは涙を流そう、でも最後は元気を取り戻してみんなで笑おう」というような感情に流された演出が目立っていた。

・「難しいことはいいから、結論だけ言って」という姿勢が、「言葉」だけですべてを処理してしまう傾向を助長する。

・波ではなく、どちらかというと、「高潮」に近い。津波という名称ではなく、「超高潮」と名づけていたら、人々のイメージはまた違ったものになっただろう。

・押し寄せる「水量」を「高さ」で論じるには基本的に無理がある。

・基本的な道理を理解していれば、「10メートルの防波堤」があれば「5メートルの津波」が来ても百パーセント大丈夫だとは考えないはずである。言葉だけで知っている「過信」というものの危険性がここにある。

・事態は悪化しているのか、それとも収束へ向かっているのか、ということを多くの人は「数字」では見ない。そのときどきの「基準値を超えた」とか「ただちに健康に影響を及ぼさない」といった言葉でしか理解しない。

・自分の住んでいるところの数値を時系列にグラフにするといったことを、いったいどれだけの人がしているだろう。そういった自分なりの分析を何故しようとしないのだろう。

・そもそも、放射線というものが何なのかも、多くの人は理解していないようである。自分の健康に影響が出るような段階に至っても理解しようとしない。ただ、「安全なのか危険なのか、はっきり決めてくれ」と主張する。

・数字というのは、それがどのくらいのものなのかを伝えることができる最もわかりやすい指標だ。ところが、多くの人は数字を拒絶してしまい、「その数字を人間(みんな)がどう感じるか」ということを知りたがる。

・水道管が破裂した事故を報道するTVでは、何リットルの水が流出した、という数字を伝えればわかるところを、周囲の人たちにインタビューをして、どれくらい凄かったのか、ということを語らせようとする。そういう「人々の印象」を伝えることが「正しい情報」だと考えているようにさえ思える。

・マスコミがそういった真の情報を伝えない理由は、大衆がそんな情報ではなく、感情的、印象的、もっといえばドラマ(物語)を求めているからにほかならない。どうして、そういったものを求めるのかというと、それは、自分では考えたくないからだ。

・多くの人は、そこにある対象を見て、どう感じれば良いのか、どう考えれば良いのか、どう対処すれば良いのかということを考えたくないのだ。考えるのが面倒なのである。悲しいと自分で感じるよりも、悲しいですよ、ということまで教えてもらいたがっている、といっても良い。

・常に周りから、「ほら、奇麗だね」「可愛いね」と吹き込まれるほど、感受性が鈍くなる。一人でいるときには、自分だけでは「感じない」状態だから、あたかも感情がないように見える子供もいる。

・人の「意見」ではなく「感想」を聞きたがる傾向は、やはり文系の特徴かもしれない。意見は客観的なものであるが、感想は主観的だ。

・名称を沢山覚えていることに価値を見出すというのが、既に文系的な発想だろう。

・沢山のことを知っている人は、たしかに問題を解決する確率が高くなる。これはちょうど、財布にお金を沢山入れている状態と同じである。

・いくら多くを知っていても、ある一つの問題に対して「知らなければ」、その人間は無能になる。

・本を多く読むことは、必ず自分のためになる。そして、その本というのは、小説ではない。物語ではなく、情報や意見により耳を傾けるべきである。

・他者に対しても、その人の感情や経験ではなく、意見や考え方にもっと注目しよう。

・今でも多くの人は、鳥は地面に向かって空気を送り、その反動で飛んでいる、と考えているだろう。しかし、これは間違いだ。

・雑誌などで広く公開された知見は、もう特許の対象にならない。たとえ、誰かが特許申請をしても、既発表の証拠があれば無効にできる。雑誌公開の意味はここにある。

・書籍ほど今売れているものが店頭に並ばない商品はない。もっと悪く書けば、書店というのは、売れ残り商品を山積みにしているところにさえ見える。

・道理をある程度は理解したうえで、謳われている「安全」がどのような範囲で成り立つものなのかを知っている必要がある。「堤防があるから津波が来ても大丈夫」という認識と、「この堤防で防げるのは5メートルの津波までだ」という認識では、いざというときに生死を分けるほど大きな差がある。

・「思う」だけでは誰も救えない。「できること」を実行し、そして少なくとももう二度と被害が出ないように「できる」と信じて、前進しようとしているのだ。

・人というのは、自分の感覚をある程度は疑うだけの知恵がある。だから、たとえば、自分一人だけが幽霊を見ても、「見間違えた」と解釈することができる。ところが、「私も見た」「みんなが見ている」という賛同者が現れると話が違ってくる。「同じものを見た」という連帯感から、疑うことを放棄し、あっさりと信じてしまう。

・携帯電話を使っていても、電波とは何か理解していない。彼らにとっては、全部「魔法」のような存在なのだ。それを詳しく理解することは難しすぎる。だから、鵜呑みにするしかない。鵜呑みにするならば、幽霊だって超能力だって、簡単に信じることができるだろう。

・布教活動というのは、尋ねてきた人には親切に教える、あるいは書物やウェブサイトで公開し、興味のある人が読めるようにする、といったレベルを超えてはいけない。

・理屈なんて、もうまったくわからない。難しすぎる。だから、専門家に任せておくしかない。自分には一生わからないもの……、となるのも不思議ではない。まさに魔法と同じなのだ。ただ呪文さえ覚えて、使えればそれで良いではないか、という接し方が大多数になっている。これは、念仏さえ唱えていれば救われる、という一種の宗教と同じだ。現代では、科学は宗教になってしまったのかもしれない。



科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)

科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)

  • 作者: 森博嗣
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2011/06/29
  • メディア: 新書



タグ:森博嗣
nice!(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

nice! 0

トラックバック 0