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『凡人として生きるということ』 [☆☆]

・目の前の事件に目を奪われ、世間をとりあえず納得させるだけのために解説をしてみせるような、そんな底の浅い観点でしか社会を分析できないならば、僕らは悲惨な事件に対抗する有効な手立てを持ち得ないと思うのだ。

・若者へのへつらいで言っているならともかく、本気で若さに憧れ、「若いっていいことだ」とうらやんでいる中高年もいる。

・本当に車が好きだと言うなら、ガレージでエンジンから組み立てるぐらいのことをしてはどうだ。「車が趣味」とか、「自分の個性」などと主張するなら、せめてその程度には車に没頭してから言うべきだろう。

・単にカネを出しただけで手に入れたものは、趣味とはとても言えないと思う。

・映画が真実しか描けないのであれば、SFやファンタジーの宇宙戦争も魔法学校もすべて描けなくなってしまう。

・映画の中で輝く青春が描かれているからといって、それがあたかも現実に存在すると思い込むのは早計だと主張しているのだ。

・不自由とは、要するに他人の人生を抱え込むことなのだと、思いつく。配偶者、子供、親と、そんなものを抱え込む度に人は不自由になっていく。

・誰からも必要とされない人間ほど寂しいことはない。人は誰かから必要とされて、本当に生の喜びにひたれる。

・定年を迎えた夫が家でゴロゴロするのを嫌がる妻も多いようだ。会社を退職して社会との接点を失った夫は、もはや妻にとって社会とつながるツールとしての価値がないということなのである。

・少なくとも、何も選択しないうちは、何も始まらない。何も始めないうちは、何も始まらないのだ。

・人間というものは自己実現の方法として、常に他人からの評価を得たがる存在である。

・普通は、恋愛の相手からの絶対評価と、社会からの相対評価の両方をもらって、やっと満足できるものなのだ。

・種族保存の本能に支えられた衝動的セックスならば、人間社会の中でその行為は語られる価値はない。だが、セックスは語られる。それは文学の中でも映画の中でも、それこそ何百万言を費やして語られ続けている。だから、セックスには言葉が必要なのだ。

・本来ならば、ホルモンに突き動かされ、ただやりたくてやっていた行為が、そこに言葉が与えられたときに、それは文化的な行為になる。もともとは生物学的な衝動に過ぎなかったものが、やがて文化的な欲望に置き換えられるようになるのだ。

・『ロリータ』が書かれたことで、未成熟なメスを求めるという不可解な行為は、社会的な認知はされなくても、少なくとも文化的、文学的には認知されたことになる。まさにロリータコンプレックスは人類によって、「発明」されたのである。

・クラスの女子に「お茶しに行こう」とは言えなかったが、「ベトナムについてどう思う?」と話しかけることはできた。要するに、話す理由もテーマもないのに誰かと面と向かって過ごすのが苦痛だっただけだ。価値観を共有できない人間と一緒に過ごす時間には耐えられなかったのである。

・引きこもりの現象を論じる時、家にこもって出てこない若者らは、世の中と関わること自体が嫌なのか、それとも世の中に参加するテーマを見出せていないのか、それをまず明らかにして分別しなければならないと思う。

・人間が苦手なのか、語るべきテーマが見出せないだけなのか。両方とも現象としては「引きこもり」として顕在化するとしても、この両者の隔たりは大きい。

・ネットで何かしらの発言をして、それが話題になったり、人を傷つけたり、喜ばせたりしても、それは社会性を身につけたというのとは次元の違う話だ。社会性というのは、自分の名前と顔をさらして生きていこうという決意のことだからである。

・「こいつだけは親友で、損得抜きで付き合える」という相手がいる人は、まあ確かに幸せだが、本当にその人と損得を考えずに付き合っていると言えるのか。友人が手ひどい裏切り行為をしたとしても、笑って許せるくらいの気持ちになれない限りは、「損得はない」と言い切れないのではないだろうか。

・人気があればお金が集まり、お金が集まれば才能が集まる。それはアキバというシステムにも当てはまる原理だ。

・ポル・ポトの過激な思想も元をただせば単純な正義から出発したはずなのだ。それは、「人間は自由で、平等であるべきだ」という考えである。しかし、それを徹底し始めると、どうにもおかしなことが起きてしまう。こういうことは人間社会ではよくあることだ。

・格差論の根底にあるのは、人間の嫉妬である。巷で盛んに議論されている格差への警鐘を通して透けて見えるのは、根源的でプリミティブなねたみの心なのである。そして、ねたみほど強力な感情はない。

・「どうやったら、他人をうらやむ人間の本性を抑制できるか」という議論ではなく、「ねたみの心が満足される程度によくできた社会制度はどうやったらできるか」という政策論議をしている限り、格差の論議に終わりはない。

・人の取り得る行動のすべては、何らかの摸倣である。人殺しでも恋愛でも、戦争でも善行でも、すべてがその例外ではない。

・「地方は疲弊しているというのに、国はなぜ何もしようとしないのですかね」とか、そんな現状を追認しただけの言葉をいくら並べても、問題は何ひとつ解決しない。

・映画を作った当の監督が驚くような、「なるほど、オレが作った映画にはこんな意味があったのか」と、作者自身をハッと目覚めさせ、作者の無意識をも再認識させるような評論にはめったにお目にかかれない。

・僕らには言葉が必要だ。有効な言葉が必要なのである。それがないままに軽いコトバだけが、テレビやネットの上で無意味に摸倣され続ける結果、ある状況に陥った人間がヤリ玉に挙げられ、よってたかって叩きのめされるという、社会的リンチ状態が発生するようになった。



凡人として生きるということ (幻冬舎新書)

凡人として生きるということ (幻冬舎新書)

  • 作者: 押井 守
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2008/07
  • メディア: 新書



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