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『ようこそ断捨離へ』 [☆]

・中元・歳暮、冠婚葬祭の引き出物、その他贈答品、等々。それはみんな、向こう側から勝手にやってくるモノばかり。好んで求めたモノではないのです。たとえて言うなら、家の中は「他人の好み」でいっぱい、いっぱい。その空間が、主にとって、心地よいのか。

・ひとつ取り入れたら、ひとつ手放す。否、ひとつ手放したら、ひとつ取り入れる。これが鉄則。「捨」の優先!

・流れをスムーズにするためには、電車だって降りる人が先。そうしないと誰も乗れない。何事も、「捨」つまり出す・手放すことが先なんですね。暮らしも住まいも一緒。

・客用ベッドがなくても、不都合なのは3日。残り362日は、なくてもなんらさしさわりがない。「3日間の困った」=「不安」に、焦点を合わせるか。「362日の大丈夫」=「安心」に、焦点を合わせるか。不安と安心、どちらにフォーカスするかは、まったく自由であるけれど、もしそれが、無自覚な自分のパターンであるならば、その小さな選択の連続が、人生を決定していくとは思いませんか。

・モノとの関係……所有タイプか、使用タイプか。家族の中に、根深い対立が生まれる可能性が潜む。

・生活の必需品といえるモノは、どこの家でも、ほとんど揃っているわけだから、後は、生産者側としては、便利グッズの類を売るしかないのかもしれないし、消費者側は、それを買うしかないのかもしれない。

・「あると便利なモノ」=「なくても困らないモノ」という図式に気がついた時、あらためて、その図式で、モノとの関係を問い直した時、家の中のモノが、一気にガラクタと化す。

・片づけられない自分を責めている人に共通するのは、親との関係が未処理というか、親に褒められていない、言い換えれば、親に認めて欲しがっている幼い自分が、心の奥底に住んだままのような。

・日常、自分に許しているモノは、どうでもいい安価なガラクタばかり。グレードの高い、高価なモノは、もったいないと、ただ保存しているだけ。けっして、自分が使おうとはしていなかった。というより、それらを使用することなど、意識にかけらほどもなかったのだ。

・生前、どんなに整理してと周囲が懇願しても、私が死んだら捨ててちょうだい、それまではこのまま、などと、平気で言い放つ。残された家族の迷惑は、計りしれない。

・「何か良きことをする前に、忌ましている悪しきことを止めよ」が、断捨離の鉄則。

・日々、食べたいと思うものは違うはず。買い物をした日に食べたいと感じた食品と、実際に食べる日のズレ。結局、その日に食べたいと感じたものをお店でつまんでくるのが常なのだ。

・「したい」と「する」との違い。痩せたい、という「願望」と、痩せるぞ、という「決意」の差のような。願望だけでは変わらない、実行がともなわないと。

・「捨てればゴミ、生かせば資源」というキャッチフレーズがありましたが、違います! 「洗えば、資源、洗わなければゴミ」です。

・モノや食べ物を、確保・保存するのは本能ですね。それは、ヒトも同じ。本能に意識のスパイスを振りかけないと、以上にモノが生産され続けるこの社会で、モノと適度な関係で暮らすのは、至難の業かもしれない。

・私が、いろんなモノを捨てていっても、見ていないかぎりは気づきもしないくせに、見てる時、もしくは外に出したゴミ袋を見て、なんだかんだと大反対する。

・私たちは、モノに思いを込める。いえ、気がつかないうちに、モノに、思いが込もってしまうのかもしれません。だから、モノはさまざまな思いの物的証拠。証拠をなくせば、見えない拘束から、解放される。



ようこそ断捨離へ モノ・コト・ヒト、そして心の片づけ術

ようこそ断捨離へ モノ・コト・ヒト、そして心の片づけ術

  • 作者: やましたひでこ
  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 2010/06/11
  • メディア: 単行本



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