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『アベンジャー型犯罪』 [☆☆]

・特定の個人に対する報復というよりも、迫害者として同一視した社会への報復という意味合いを帯び、無関係な人を巻き添えにするのがアベンジャー(復讐者)の特徴でもある。

・アベンジャー型犯罪の一つの特徴は、その計画性と演出性である。アベンジャーにとって、それは人生における最初で最後の大舞台なのである。それは、犯罪であって、同時に表現行為でもある。

・アベンジャーは、人生の最後に、全てを投げ出して、怒りをぶつけ、他人を破壊することで、自己の尊厳を回復しようとする。

・服のセンスや着こなしによって、その人の社会的魅力は大きく左右されると言っても過言ではない。ファッションセンスは、実際、社会性の一つの尺度となりうる。社会的関心の乏しい人では、一般にファッションにも関心が薄い。

・ファッションに鈍感なタイプの人は、社会的な場面で、取り残されがちになることが起こりやすい。

・従来のうつ病が、責任感が強く、ぎりぎりまで我慢し、自分を責める傾向が強いのに対して、非定型うつ病の場合には、元々過敏な傾向をもった人が多く、問題を周囲に責任転嫁する傾向が見られる。

・精神医学者カール・メニンガーは、自分を殺そうとする欲求と殺されたいと望む欲求、そして、他人を殺そうとする欲求は、しばしば結びついていることを指摘し、「自殺の三徴候」として述べた。今日、メニンガーの三徴候(トライアド)と呼ばれている。

・IQ的な知能に恵まれていても、社会的知能の面で未熟であれば、IQ的な知能を活かすことができず、社会的不適応を起こしやすくなる。

・知的能力は平均以上であるにもかかわらず、社会性や共感性の面で小学生低学年レベルに留まっているか、退行を起こしている人が珍しくなくなっている。

・アフリカで生まれ育ってイスラエルに移住した子供には、発達障害がまったく見られないが、同じアフリカ系の子供でも、イスラエルで生まれ育った子供には、ヨーロッパ系と同じくらいの頻度で、発達障害がみられるということがわかったのである。これは、何らかの環境的要因が、発達障害の成因に重要な役割を果たしていることを示すものとして、注目されている。

・社会環境の変化は、そこに住む住人に影響せずにはおかない。もっとも強い影響を蒙るのは、発達途上の子供や適応力の乏しい脆弱な存在である。

・親が本人に言い続け、望んできたことは、まったく親と縁が切れてしまっていようと、その人を縛り、行動を左右し続ける。

・ヴァーチャルな世界は、人と面と向かい合うのが苦手な、傷つきやすい自己愛を抱えた人にとって、とても居心地の良い空間であり、まさに自己愛の王国を提供してくれる。ゲームやネットには、そういった一面がある。

・容姿のことでからかわれることに怒りを抱きながら、本人自身も、自分のような容姿の者は、からかわれても仕方がないと思っている。悲しいことに、自分の容姿を魅力がないと見なしているのは、周囲の生徒以上に自分自身なのである。

・自己愛的な怒りは、今や社会の各所で増えている。店頭で長く待たされたと、大声で店員を罵倒する客。クラクションを鳴らされたことに腹を立て、刃物を持ち出す男。思い通りにならない子供を折檻して殺す母親。

・自己愛の充足は、物質的満足というよりも、他者の愛情や関心に強く依存している。

・自分が主人公であることに価値をおく自己愛型社会は、皮肉にも、愛情と関心に飢えた、孤独な主人公ばかりを生みだすことになる。

・共通して語られることの一つは、楽しい思い出よりいやな思い出が多いということである。突発型の事件を起こした多くの若者が、「いやな思い出しかない」「楽しいことは、あまり思い出せない」という言い方をする。

・本来の憎しみの対象に刃が向かわず、無関係な相手に兇刃を振り下ろすのには、親をもっと困らしてやろうとする思いとともに、親を憎みつつも憎みきれない思いがある。それは、今もなお支配され続けていることの名残でもある。

・親に自分の傷ついた思いをわからせる最後の手段が、無関係な人に刃を向けることなのである。親には究極の観客として、一部始終を見届けて貰わねばならないのである。

・押しつけがましく、独善的な厳格さと、自然で温もりのある情愛の不足。人を兵隊でも訓練するように育てれば、兵隊のように、呵責なく人を傷つける人間になってしまっても不思議はない。

・親がわが子に殺される事件では、ある意味、虐待していた親が殺されるケースよりも、可愛がって甘やかしていた親が殺されるケースの方が多いのである。

・まったく非暴力的なゲームであっても、過重な使用をすることは、暴力的なゲームと同じような危険を及ぼす可能性がある。問題はコンテンツ(内容)ではなく、むしろ、現実との接触や現実の匂いや、現実の達成なしに、現実に代わる場所で過ごすことなのである。

・ヴァーチャルの世界で長時間を過ごし、現実の生活を圧倒するようになると、仮想は現実以上の重みを持つようになる。夢や白昼夢にさえ登場するようになる。

・情報過負荷な状況に置かれ続けると、脳は自分を守るために、防衛メカニズムを働かせ始める。その一つは、情報や刺激に対して感受性レベルを下げ、無感動になることである。何事に対しても、無関心で、積極的に関与しない行動様式が身についていく。

・情報通信革命は、地方で暮らしていようと、世界のどこにいようと、情報過負荷を生じうる事態を作り出した。むしろ、情報過負荷に対して免疫を持たない地域や人々に、極端な反応を引き起こす傾向も見られている。アメリカのスクール・シューティングにしろ、日本で見られた突発型の少年犯罪にしろ、大都市部に多発する従来型の犯罪とは異なり、犯罪とは無縁だった、のどかな地方でも、数多く起きているのである。

・人類の祖先がまだ猿人だった太古から、脈々と進化してきた社会性のシステムは、顔が作り出す表情や眼差しというものに対して、鋭敏に発達した社会的認知の能力を発達させてきた。ネットやケータイは、この状況を、わずか何年かの間に、がらっと変えようとしている。

・ネットは、内であると同時に外であるクラインの壷のような空間であり、そこは、プライベートであると同時に、パブリックな場である。

・専門家の間ではよく知られていることだが、人は内面を語り過ぎると、不安定で傷つきやすくなる。内面を語ることは、相手に自分のもっとも弱い部分をさらけ出す行為であり、動物が腹を見せて横たわるようなものだ。

・国民の多くは構造改革を支持した。一つには、中身を理解していなかったということもあるだろう。人気の高い政治家の巧みな弁舌を信じ、今の痛みに耐えれば、良い時代が来ると信じたのである。

・社会全体が活力を失い行き詰まる中で、明るい未来という希望に酔うことができなくなっている。そうした中、現実のみじめさを忘れさせ、自己愛を満たしてくれる愛撫装置が必要になる。それは、市場経済にとっても大きなビジネスチャンスになる。例えば、映像ファンタジーやゲーム、ネットの多彩なサービスは、どれも優れた自己愛の愛撫装置である。

・アルコールであれドラッグであれ、「酔う」という行為は、自分を自分で支えることを一時的に止めて、何者かに自分を委ねるということである。それは、母親の腕に抱かれ、よしよしと揺すってもらった頃の依存状態に戻ることなのである。

・市場経済は、無慈悲な奴隷商人の顔をもって現れることもあれば、慈しみ深い救済者の顔をして現れることもある。だが、その正体は、結局同じ、貪欲な利益の追求者にほかならない。一方で酷使し、痛めつけておいて、他方では、優しい癒しを提供する。巧みなマッチポンプで、一人の人間を無駄なく使い廻し、搾り尽くす。

・労働者として搾取され、消費者としてもう一度搾取される。

・自己愛は、商品や貨幣自体によっては満たされない。それを共有する者との共感的な関係こそが、満足の源泉だったのである。

・見守るという言い方をよく使うが、それは、単に言葉の綾ではなく、文字通り、その目で見て、守ることが大切である。子供は親に見られることで、喜びを覚える。見ることから、視線の共有が始まり、それが社会性を育てる源になるのだ。だが、今や、親の視線は、テレビやパソコンや携帯の画面に奪われがちだ。

・ただ人より優越するための学力や体力など、人間性という点ではマイナスなのである。元エリートや元スポーツ選手が、人を人とも思わないような傲慢な犯罪を犯すケースがあるが、学力や運動能力を磨くことが、その人にとっては、驕った誇大自己を膨らませただけで、人間を磨くことにはつながらなかったのである。

・大学を出ても、せっかく学んだ専門知識は中途半端で通用せず、専門とは無関係な分野に仕事を求めざるを得ない。

・逆境に強い人を育てるためには、いわゆる「強い人」を育てようとするよりも、「甘えられる人」「柔らかい人」を育てることの方が、その人を守ることになる。

・親や家庭にできることの第一は、本人が弱っているとき、物事がうまくいっていないとき、悪い方向に問題が出てきているときに、それ以上追い詰めないように気をつけることである。しかし、現実には、逆のことが起きてしまうこともある。うまくいっているときは、ちやほやと優しく接するのだが、うまくいかなくなり、問題が噴出し始めると、そっぽを向いたり、見放す態度をとってしまう。自己愛の強い親では、そうしたことが起こりやすい。

・市場原理とは、結局、欲望の原理であり、思いやりや共感とは本質的に相容れないものである。それは、大いなる活力を生む原動力ともなるが、己の欲望のために他人を犠牲にすることも厭わない無慈悲で、情け容赦のない弱肉強食の原理でもある。

・生物界の多様性が失われているだけでなく、社会の多様性も失われているのだ。個人商店や小さな会社が、それなりに利益を上げ、家族や従業員を養い、地域社会に根付いていた時代こそ、今から考えれば、豊な時代だったのである。

・単純化され、多様性を失った社会は、変化に対しても脆い。多様性を失った社会は、滅びる一歩手前の状態なのである。



アベンジャー型犯罪―秋葉原事件は警告する (文春新書)

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  • 作者: 岡田 尊司
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2009/01
  • メディア: 新書



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