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『「すみません」の国』 [☆☆]

・日本では、コミュニケーションの目的が、自分の意見や思いを伝え、理解してもらうことではなくて、その「場」の雰囲気を良くすることである。

・事実や意見をできるだけ正確に伝えようとする欧米人に対して、私たち日本人は、これを伝えたら相手はどんな気持ちになるかを気にして、言うべきことや言い方を調整する。正確さを伴う説明責任よりも、気持ちや関係性を重視するのだ。

・どちらの責任かをはっきりさせずに、「お互い様」という落としどころにもっていき、双方の面子を立てながら「場」の雰囲気を良好に保つというのは、言ってみれば個人の責任でなく「場の責任」とする発想である。

・企業を見ても、政府を見ても、相変わらず責任が曖昧なため、いざというときの即座の対応ができない。

・クレームを持ち込んだ客の側に「個」の発想がなく、「場」の発想で動いているということに気づくだけでも、クレーム対応がスムーズにできるようになる。客としては、間違っているところを訂正してほしいのであって、責任を追及したいわけではない。

・飲み会の席で、「この場ではホンネトークでいこう」などと言われることがある。「それでは」ということで、みんなホンネらしきことを語り始める。でも、だれもけっしてホンネを語ってはいない。「ホンネっぽく聞こえるタテマエ」に終始しているのがわかる。それは課長にもわかるはずだ。それでも気にすることなく、満足げにしている。

・日本的コミュニケーションにおいては、どんなに意見の開きが大きく、とても受け入れるわけにはいかないといった場合でも、とりあえずは友好的な雰囲気を壊さないように、相手の立場に対して理解を示すのが礼儀となっている。理解を示したからといって、それに従うというわけではない。

・意見の違いが際立たないように、何ごとも曖昧な言い方をして、良好な雰囲気を維持することだけを強く意識する。良好な雰囲気の場が形成されれば、お互いに相手が困るであろう要求を突きつけるようなことはできなくなる。これが日本的コミュニケーションの基底部分に根づいている意識と言ってよいだろう。

・欧米社会と日本社会では、コミュニケーションが担わされている役割が違うのだ。欧米社会においては、コミュニケーションは自分の意見や思いを相手にできるだけ正確に伝えるための手段であり、はっきりと言葉で伝えることで説得しようとする。これに対して、日本社会においては、コミュニケーションは良好な関係を保つための手段であり、自分の意見や思いを正確にわかってもらおうという意思は乏しい。説得しようとするわけでもない。

・状況依存社会とは、状況から独立して存在する一貫した原理原則が行動を規定するのではなく、具体的な状況に応じてそれにふさわしい行動が決まってくる社会のことである。

・状況依存的な自己の出し方は、敬語や自称詞・対称詞といった言葉遣いにも、端的にあらわれている。

・外国人が日本人と会話をしていると、無意味と思われる会話があまりに多すぎると感じるというが、一見無意味な会話にも、じつは意味があるのだ。それは、会話の内容に意味があるというよりも、とくに内容のない会話で「場」の雰囲気を和ませるといった意味があるというわけである。

・なぜ日本では正論を述べる人は排除されるのか。それは、正論というのは有無を言わさぬ説得力をもち、違う意見をもつ人たちの面目を潰してしまうからだ。

・欧米を見ても中東を見ても、自分の考え方と矛盾する立場に対して、きわめて非寛容で攻撃的である。だから争いが絶えない。

・アメリカ的なコミュニケーションは、「話せばわかる」という前提に立つが、日本人はそれほど楽観的でなく、「話してもわからない」という考え方に立っている。なぜかといえば、日本的な意味で「わかる」というのは、完全な、全人格的な理解を指すからである。

・コミュニケーションが苦手だという人の多くは、じつは雑談が苦手なのだ。どんなにコミュニケーションが苦手な人でも、必要なことくらいは言える。それは、言ってみればマニュアル作業だ。言うべきことが決まっていれば、それは何とかこなすことができる。必要なことを言う前と、言ってしまった後が困るのである。

・イギリス人であれば、自分がいかに悲惨な目に遭ったかを感情を込めてアピールする場面でも、日本人は相手に気を遣わせまいと、自分の悲惨な体験も微笑を浮かべながら淡々と語る。そこには自分のことで相手を煩わせたくないという思いやりがあるのだ。その思いやりは、克己心にもつながるものとして、日本文化の根底に流れている。

・日本人にとって対話は感情的な結びつきを生み出し強化するものであるため、意見の違いは雰囲気を壊しかねないと嫌われるが、アメリカ人は意見が対立するのは当然と見なし、対立意見の衝突を楽しみながら、そこから洞察を得ようとするという。ゆえに、アメリカ人は、日本人のように意見の衝突によって友だち同士が不和になることはないとしている。

・ツルの一声が通用するのは、原理原則よりも具体的な人間関係に重きが置かれるからと言える。

・政治家たちの動向について、さまざまな報道がなされる。その内容を見ると、政策そのものの理論的対立についてではなく、体面をめぐる攻防、感情のもつれ、人間関係の構図、因果応報など、人間模様についてのコメントがほとんどである。

・世界各国との交渉に関する新聞記事を検討したファローズは、自国にとってこうするのが「正しい」とか「間違っている」といった記事は少なく、「そうしなければ日本は批判される」「今や日本への期待が高まった」といった記事ばかりであり、そこに日本の普遍的原則の弱さがあらわれているという。

・政治家の発言を見ても、メディアの時事評論を見ても、国際問題・国内問題のいずれにおいても、「批判されているから」そうする、そうしないと「批判を招く」、そうすることが「期待されている」といった論調が目立つ。

・多重人格は、自分の中の多面性を認めることができず、意識している自己像と矛盾した考えや思いを抑圧することによって、別の人格が生み出される病理といえる。

・人道的とか正義といった、抽象概念に基づく原理原則を守ろうといった意識が乏しいと批判される日本が、いざというときの秩序と礼節が見事であると称賛される。このような秩序と礼節は、目の前の人のことを思いやるという状況依存の心の構えがもたらすものである。

・これまでにも私たちは、国際化に向けて海外のさまざまな制度や仕組みを導入してきた。しかし、いくら形だけ取り入れても、日本文化の深層に根づいている「何ものか」によって骨抜きにされ、期待されたような効果を発揮しないことが多い。

・自文化を理解しないままに、異文化との相互理解や共生を論じるのは不毛である。



「すみません」の国 (日経プレミアシリーズ) (日経プレミアシリーズ 157)

「すみません」の国 (日経プレミアシリーズ) (日経プレミアシリーズ 157)

  • 作者: 榎本 博明
  • 出版社/メーカー: 日本経済新聞出版社
  • 発売日: 2012/04/10
  • メディア: 新書



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