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『リトル・ピープルの時代』 [☆☆]

・その商業価値においては、村上春樹ひとりと現存する他の純文学作家全員とが天秤にかけられるのだ。

・自動的に壊死を始めたビッグ・ブラザーの存在はもはや問題ではない。問題はむしろビッグ・ブラザーに対抗するという大きな物語によって自己規定していた「鼠」のような存在だ。振り上げた拳を振り下ろす対象を失った存在は迷走し、そして新しいタイプの暴力として出現する。

・グローバル資本主義とネットワーク化は、世界をひとつにつなげて、まさに「外部」を消滅させた。

・「終わらない日常」はキツイ。ユートピアであると同時にディストピアでもある。モテない奴は永久にモテず、さえない奴は永久にさえない。イジメられっ子も永久にイジメられる。

・ビッグ・ブラザーの壊死した現在、「正義」とは基本的に無根拠な決断でしかなく、責任という名のコストが自動的に発生する。

・世界をひとつにつなげるということは、「外部」がなくなるということだ。つながらないはずのものがつながり、分断され、すれ違っていたものが(確率的に)衝突してしまうことを意味する。

・翻訳することによって、作家としての勉強をするんだということ。昔の人が写本写経するみたいに、英語を一語一語日本語に移しかえて、言葉の使いかた、文章のリズムのとりかた、どんなふうに小説を書くかということを、そこから学びとる。

・アメリカにおいては『A.I.』から『トランスフォーマー』まで、「ロボット」はあくまで(人工)知能をもつ機械の身体であるという定義がほぼ維持されていると言っていい。しかし日本においてロボットとは、いつの間にか拡張された身体となった。

・「スーパー戦隊」シリーズの表現は、いわば『ウルトラマン』と『仮面ライダー』の折衷となっている。前半では強化スーツに身を包み「怪人」と戦い、後半は巨大ロボットを操縦して「怪獣」と戦うという構造が象徴的だ。

・人が虚構に準拠して行為するのは、その当人が、問題の虚構を(現実と)信じているからではない。そうではなくて、その虚構を現実として認知しているような他者の存在を想定することができるからなのである。

・「正義/悪」は存在しない。あるのは欲望だけだ。あとはいかにケリをつけるか(ゲームをプレイするか)、それだけだ。

・「子供たち」は世界がもう少し単純だった頃に帰りたい大人たちのノスタルジィよりも、現実を受け止めた新しい表現を選択したのだ。

・スローフード運動のようなアンチ・グローバリゼーション運動もまた、グローバル資本主義はエコ文化という商品として取り込んでしまう。

・クーラーの効いた部屋で、スターバックスのコーヒーを飲みながら、環境問題の本を読んで自己イメージを補強するのが現代人のライフスタイルなのだ。

・「平成の勧善懲悪」とは、すべてを都市型社会生活のルールの上に秩序だて、そこから逸脱しようとする者を、あるいは排除し、あるいは納得ずくで管理下に置こうとする――という思想である。

・ジョン・ロールズが『正義論』で富の再分配を正義の問題とすることから――「正義」を「分配」もしくは「調整」の問題として捉えなおすことからアメリカの正義論は始まる。

・もうひとつの世界に接続するのではなく、この世界を読み替えること――たとえば「聖地巡礼」現象はその端的な例として挙げられるだろう。キャラクターが現実の風景に入り込むことで、何でもない駅前や神社や住宅地が「聖地」と化していく。

・リストカットなどの自傷行為は、しばしば特定の性格イメージの自己確認/周囲へのアピールとして行われていることが広く知られている。現実の身体に「傷」という「記号(設定)」を加えることで、彼/彼女はひとつのキャラクター(設定)を手にすることができ、現実をひとつ多重化しているのだ。

・自己責任の原理と運命論的な諦念が支配する新しい世界に対応できない「古い人々」こそがOld Men=「老人」にたとえられているのだ。

・既得権益批判を繰り返す、ロスト・ジェネレーション世代の若者たちに、「戦後」の体制を復活させることを要求する主張が散見されるように。「古い人々」は「かつてあったもの」に拘泥し続けるという意味で象徴的にOld Men=「老人」なのだ。

・「黒歴史」は、端的に述べれば「歴史」を(「宇宙世紀のように)「物語」として読むのではなく、「データベース」として読む態度=歴史観のことに他ならない。



リトル・ピープルの時代

リトル・ピープルの時代

  • 作者: 宇野 常寛
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2011/07/28
  • メディア: 単行本



タグ:宇野常寛
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