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『フェルマーの最終定理』 [☆☆]

・彼が手にした聖杯は、美しく価値はあるにせよ、ただ水を飲むための容器に過ぎないことが暴露されようとしていたのだ。

・数学の核心は証明にある。そして証明こそは、数学と科学の他の分野とをきっぱり分かつものなのだ。数学以外の科学分野ではまず仮説を立て、実験によってそれを検証する。そして仮説の誤りが示されれば、べつの仮説がそれに取って代わる。

・いろいろな川の実際の長さと、水源から河口までの直線距離との比を求めてみた。その比は川ごとに異なっていたけれども、平均すると3よりも少し大きい値になることがわかった。この比はほぼ3.14なのである。これはπ、すなわち円周と直径の比の値に近い。

・科学理論を数学理論と同じレベルで完全に証明することはできない。いわゆる科学的証明は観察と知覚をよりどころにしているが、そのどちらもが誤りをまぬがれず、そこから得られるものは真実の近似でしかないのである。

・フェルマーが出世したのは、必ずしも彼が野心家だったためではなく、しいていえば身体が丈夫だったからだろう。当時のヨーロッパはいたるところでペストが猛威をふるい、生き残った者は死んだ者の後釜として昇進させられたのである。

・エウクレイデスが生涯の大半を費やして著した『原論』は、史上もっとも成功した教科書となっただけでなく、今世紀に入るまで聖書に次ぐ世界第2位のベストセラーでもあった。

・負の数、分数、無理数などは最初からあったわけではなく、後から発見されたものなのだ。そしてどの場合も、発見のきっかけは、そういう数が存在しなければ解けない問題に出くわしたことだった。

・数学に矛盾やパラドックスや不整合は許されない。たとえば背理法という強力なテクニックは、数学にはパラドックスはないという性質の上に成り立っている。

・神は存在する。なぜなら数学が無矛盾だから。そして悪魔も存在する。なぜならそれを証明することはできないから。

・一見すると関係のなさそうなテーマ同士が結びつくことは、どんな学問分野においてもそうであるように、数学においても建設的な意義を持っている。

・帰納法とはドミノ倒しのようなものである。無限に続く一つ一つの場合を、無限に続くドミノ倒しだと想像してみればよい。すべての場合を証明するためには、すべてのドミノ牌を倒す方法を見つけなければならない。

・ぼくに欠けているものは、ぼくが愛するこのできる、心から愛することのできる人間なんだ。

・加法によって得られる結果はすべて、整数の中におさまる。このことを、「整数は加法について閉じている」、あるいは「整数は加法について群をなす」と言う。いっぽう、整数は「除法」については群をなさない。なぜなら、ある整数を別の整数で割った結果は必ずしも整数ではないからだ。

・注意すべきは、0で割った結果は無限大になるということだ。無限大が出てきたとたん、数学にはありとあらゆる悪夢が生じる。

・もしひっきりなしに質問していたら――ここがわからないとか、そこはどうなっているのかとか――講義する方が何も説明できなくなり、聴く方も結局は何もわからずじまいになるでしょう。



フェルマーの最終定理 (新潮文庫)

フェルマーの最終定理 (新潮文庫)

  • 作者: サイモン シン
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2006/05
  • メディア: 文庫



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