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『資本主義と自由』 [☆☆]

・組織や制度というものは、とくに政府がそうだが、民間であっても、現状維持の呪縛がきわめて強い。実際に危機に襲われるか、あるいは差し迫った危機の恐れでもない限り、ほんとうの変革は起こらない。

・いざ危機が発生すると、誰でも手近にある意見や理論を頼りに行動しようとする。私たち学者の基本的な役割は、ここだ。現行政策に代わる政策を用意しておく。

・自由人にとって政府とは一つの道具や手段にほかならず、何か施してくれるやさしい庇護者でもなければ、敬い仕えねばならない主人でもない。

・偉大な業績を生み出したのは個人の才能であり、大勢に逆らって貫き通された不屈の意志であり、そして個性や多様性に寛容な社会であった。

・政府は進歩より現状維持を、多様性より可もなく不可もない均質性を選ぶようになるだろう。けれども多様性こそ、明日の底辺を今日の平均以上に押し上げる試みに欠かせない要素なのである。

・19世紀の自由主義者は、自由の拡大こそ福祉と平等を実現する効率的な手段だと考えたが、20世紀の自由主義者は、福祉と平等が自由の前提条件であり、自由に代わり得るとさえ考えている。

・互いの自由は衝突することがあり得るし、そうなったら、一方の自由を制限しなければ他方の自由は守れない。ある最高裁判事がかつて述べたように、「拳を突き出す自由は、誰かの顎が間近にあるときは制限されなければならない」。

・政府が介入するのは、当事者に代わって別の誰かが決断することを是認しているからだが、自由主義者にとってこれは受け入れ難い考え方である。これは、反自由主義者すなわち共産主義者、社会主義者、福祉国家論者に共通する考え方なのだ。

・責任は分散させながら権力だけが少数の人間に集中し、したがって、その人たちの知識や能力に高度な政策判断が委ねられるような制度では、容認できる失敗にせよそうでないにせよ、とにかく失敗は避けられない。

・人は自分が多数派のときに他人の言論の自由を奪うのは平気でも、自分が少数派のときに言論の自由を奪われるのは大いに気になる。

・注意しておくべきことがある。それは、「学校教育」と「教育」は同じではないということだ。学校教育は必ずしも教育ではないし、教育は必ずしも学校教育ではない。本来の関心の対象は教育であるべきだが、政府が介入するのは学校教育にほぼ限られている。

・立派な校舎やすばらしい運動場に投じられた予算は、「学校教育」支出とは言えるが、「教育」支出とは言えない。

・労働者の大半は給与の均等化を歓迎し、能力給に反対するものだ――何と言っても、とびぬけて優秀な人はそうはいないのだから。

・奴隷制が認められていない国では、投資対象の人間を借金のカタとして売るわけにはいかないのだ。たとえそれができたとしても、担保としての価値は低い。

・資本主義社会を根底から変えなければならないと声高に主張するのは、少数集団に帰属する人が非常に多い。彼らは、市場のおかげでいまのように差別が減ったのだということを認めようとせず、なお残る差別は市場に原因があると思い込んでいる。

・市場では経済効率が最優先され、それと無関係の要因は切り離される。パンを買う人は、小麦を栽培したのが白人か黒人か、キリスト教徒かユダヤ教かなど気にしない。したがって小麦の生産者は、社会通念などにおかまいなく人種や宗教を無視して労働者を雇えるので、資源を効率的に活用できる。

・差別とは、所詮は受け入れ難い他人の「好み」にほかならない。

・「医療行為」は免許のある医師に限るとした場合、当然ながら医療行為とは何かを定義しなければならないが、そこで縄張りを広げたくなるのは人の常であるらしい。

・他の人でも問題なくこなせる「医療行為」に正規の医師がかなりの時間を割くことになり、その結果必然的に、本来の医療行為に充てる時間は大幅に減ってしまう。

・各人を平等に扱うとは、各人の好みを満足させることだとも言える。

・累進税が課せられるのは、人生の宝くじで誰が当たりを引き当て誰が外れだったか、おおむねわかってしまったあとである。それも累進税制に賛成票を投じるのは、だいたい外れを引いた人なのだ。

・人は口先では「運」より「実力」に価値を認めるけれども、実際には運による不平等の方が実力による不平等よりはるかに受け入れやすいものだ。同僚が競馬の大穴を当てたとき、羨みこそすれ恨むことはないだろうし、不当な扱いを受けたとも感じないだろう。だが同僚が昇給し自分より少しでも報酬が多くなったとしたら、大いに不快に思うに違いない。運は相手を選ばないが、昇給は明らかに実力を相対評価した結果だからである。

・人を強制的に朝九時に工場へ行かせることはできても、最大限の力を発揮してもらうことはまずできない。逆に言えば、協力ではなく強制に頼ると、資源を最大限に活用することは望めなくなる。

・マルクスの判断は、資本主義の原則に従ったからこそ出てきたものだ。なぜなら「労働者には生産した分だけ受け取る権利がある」という条件の下でしか、「搾取」されたとは言えないからだ。

・社会主義では、「各人へは必要に応じて、各人からは能力に応じて」ということが前提になっている。これが本来何を意味するにせよ、この前提に従う限り、労働者には生産ではなく必要に見合うだけ払わなければならず、労働者は対価にかかわらず能力に見合うだけ生産しなければならない。

・過去一世紀にわたる進歩と発展の最大の特徴は、大衆が重労働から開放されたこと、それまで富裕層に独占されていたモノやサービスが大衆の手に入るようになったことである。その一方で、富裕層の手に入るモノやサービスはさして増えていない。

・何が得られたかと言えば、たかだか一部の人が、国はきちんと所得を再分配していると満足するだけのことである。それも累進税の実際の効果を知らないからのことで、内情を知れば、満足感など消え失せるに違いない。

・社会保障プログラムは、未来永劫存続することが大前提になっているような政府プログラムの一つである。発足当初にはずいぶん議論の的になったのだが、いまやあるのが当たり前で、望ましいかどうかなど問題にされもしない。だが社会保障プログラムは、何ら説得力のある理由もなしに、国民の大多数の生活を相当程度に侵害している。

・その生き方はけしからぬと説教するのはよかろう。だが、人が自ら選んだことを強制的にやめさせる権利はどこにもない。あちらが正しくてこちらが間違っている可能性はゼロではないのだ。自由主義者は謙虚を身上とする。傲慢は温情主義者にゆずろう。

・自由主義の原則から年金の強制加入を正当化し得る唯一可能な論拠は、将来の備えを怠る人は自らの行動の結果を引き受けずに他人に負担を強いるというものである。

・自分の老後に備えなかった人は社会の負担になる。だから年金に強制加入させるのは、本人のためではなく他の大勢のために必要だ、というわけだ。

・イギリスは普通選挙への道を歩み、その際に、年金など国からの援助を受ける人であっても選挙権は制限されなかった。このため、一部の人に与える目的で他の一部の人に課せられる税金が途方もなく増えた。

・平等主義者が「誰かから取り上げて別の誰かにあげる」ことを認めるのは、目標を達成するための効率的な手段だからではなく、「正義」だからなのだ。

・知識人がこぞって改宗したのは、不正がはびこり欠点ばかり目につく資本主義社会の現状と、希望的観測を込めた共産主義社会の姿とを比べたからだ。現状と理想を比較したのである。

・政府が依って立つ価値観は、当事者の価値観ではなくて、第三者の価値観なのだ。だから「これこれが諸君のためになる」と押し付けたり、「誰かから取り上げて別の誰かにあげる」ようなことになる。

・国の助けは自助努力を駆逐するという明らかな事実に気づいている人もほとんどいない。したがって大多数の人が政府の介入を必要以上に歓迎するのはまず避けられない。



資本主義と自由 (日経BPクラシックス)

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  • 作者: ミルトン・フリードマン
  • 出版社/メーカー: 日経BP社
  • 発売日: 2008/04/10
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