『あなたは考えすぎてしまう親』 [☆☆]
・妊婦が口にする食物がおなかの子供にとって重要なのと同じくらいに、妊娠中に妊婦が頭に詰めこむ情報は妊婦の精神にとって重要な意味をもっている。
・本といっても、子供が「どう行動するか」という情報を提供するものと、子供に「どういう行動をとらせるべきか」というアドバイスを提供するものとは、性格が異なることに気がついた。
・本を読むことで親が向上することがあるとすれば、それはその人が人間として向上したときなのだ。
・わたしたち考えすぎる親は、子供のことばかり考えているのではない。親は自分たちのパフォーマンスを気にしているのだ。
・父親になるのをおそれる男は、父親業は完成した男のやることではなく男を完成させるものだ、ということがわかっていない。子育てがつくりだすのは、子供ではなく親なのだ。
・「プロの母親」の誕生は、同時に誕生した別の種類のプロ――母親たちを指導することを専門とする人たち――によって、最初から水を差されていた。
・20世紀は当初、「子供の世紀」と呼ばれていた。だが「専門家の世紀」と呼んだほうがよかったかもしれない。
・想像上のお友だちなどというものは、近ごろでは絶滅しかけた種にちがいない。というのも、ひとりでいることがめったにないから、そんなものと友だちになる必要がないのだ。
・赤ちゃんは賢いということを忘れてはいけない。泣けば親がやってくることに、たちまち気づくのだ。
・過剰にかまってもらう赤ちゃんは、生まれたばかりのころにある程度の欲求不満を経験した赤ちゃんにくらべて、好奇心が育たなくなる。ほしいものがなんでも手に入れば、自分から努力して手に入れようとしなくなるのは、人間として自然なことである。
・自分の子供をわざとつらい目にあわせる親はいない。だが、あらゆる災難から子供を守ることなどできないと自覚するのが、分別のある親というものではないだろうか。
・愛は互いを見つめ合うことではなく、いっしょに外へ向かって同じ方向を見ることだ。
・「活発な子」は手に負えない子の別表現。
・いまや、どんな子でも英才児になりうるのだ。たとえ伝統的分野で優れていなくても、対人的知性や運動的知性や音楽的知性で優れているかもしれない。多様な知性という考えを味方につければ、際限なく小さな天才をつくりだすことができる。
・頻繁にテストをおこなうと、子供は学科そのものを学ぶことより、テストをパスするために勉強するようになる。友人からある子供の話を聞いた。その子はスペリング・テストでいつもAをとるのだが、次の週にはスペルをすっかり忘れているというのだ。
・真の勇気は世の中から隔離されていては養われない、ということも忘れられている。
・もはやアメリカ人は、運が悪いから病気になるとは誰も思わない。健康なのは健康になるようなことをちゃんとしたからだと考えるし、したがって当然、病気になるのはなにかが失敗したからだと考える。
・人々が農村から出ていき、児童就労法により子供を工場で働かせることが禁じられると、子供は経済的に見て「資産」から「負債」になった、という。
・子供を危険から守り、しかもたんこぶやすり傷ができる余地を残しておいて、次からは子供自身が注意するように仕向けるのはむずかしいことだ。
・注意:警告ラベルが貼ってあるからといって製品が安全になるわけではありません。
・子供たちが、涙ひとつこぼさずに自分のぬいぐるみをガレージ・セールで売るようなことをするのもむりはない。かんたんに取り替えのきくおもちゃで育った子供は、あとあとまで人や物に変わらぬ愛着を感じることがなかなかできなくなるだろう。
・親は本当の気持ちをおおいかくして、専門家の保証がついたことばでうわべを飾るのだ。
・アメリカは文化の多様性が約束されているといっても、商業主義と「政治的・心理的正しさ」が支配する世界では、みんなが同じようになり、ほかとちがっていると怪しまれる。
・ある母親が砂場のケンカを法廷にもちこんだ。三歳になるこの母親の子供が、よその三歳児に何回かいじめられたらしい。そこで彼女はこれをなんとかしようとした。というより、わたしの考えでは、「ほかの誰か」になんとかしてもらおうと裁判を起こしたのだろう。
・外から聞こえてくる「やったほうがいいこと」を追い払ってしまえば、内側からわき出てくる「やらなければならないこと」に気づくにちがいない。
・自分の親のようにはなりたくないが、そうかといって、どんな親になりたいかもわからないでいるのだ。
・他人のことばでしゃべる親の声の中に、子供は親の自信のなさを感じとる。親が口先だけでものをいっていることを、子供たちはたちまち見抜いてしまう。
・本といっても、子供が「どう行動するか」という情報を提供するものと、子供に「どういう行動をとらせるべきか」というアドバイスを提供するものとは、性格が異なることに気がついた。
・本を読むことで親が向上することがあるとすれば、それはその人が人間として向上したときなのだ。
・わたしたち考えすぎる親は、子供のことばかり考えているのではない。親は自分たちのパフォーマンスを気にしているのだ。
・父親になるのをおそれる男は、父親業は完成した男のやることではなく男を完成させるものだ、ということがわかっていない。子育てがつくりだすのは、子供ではなく親なのだ。
・「プロの母親」の誕生は、同時に誕生した別の種類のプロ――母親たちを指導することを専門とする人たち――によって、最初から水を差されていた。
・20世紀は当初、「子供の世紀」と呼ばれていた。だが「専門家の世紀」と呼んだほうがよかったかもしれない。
・想像上のお友だちなどというものは、近ごろでは絶滅しかけた種にちがいない。というのも、ひとりでいることがめったにないから、そんなものと友だちになる必要がないのだ。
・赤ちゃんは賢いということを忘れてはいけない。泣けば親がやってくることに、たちまち気づくのだ。
・過剰にかまってもらう赤ちゃんは、生まれたばかりのころにある程度の欲求不満を経験した赤ちゃんにくらべて、好奇心が育たなくなる。ほしいものがなんでも手に入れば、自分から努力して手に入れようとしなくなるのは、人間として自然なことである。
・自分の子供をわざとつらい目にあわせる親はいない。だが、あらゆる災難から子供を守ることなどできないと自覚するのが、分別のある親というものではないだろうか。
・愛は互いを見つめ合うことではなく、いっしょに外へ向かって同じ方向を見ることだ。
・「活発な子」は手に負えない子の別表現。
・いまや、どんな子でも英才児になりうるのだ。たとえ伝統的分野で優れていなくても、対人的知性や運動的知性や音楽的知性で優れているかもしれない。多様な知性という考えを味方につければ、際限なく小さな天才をつくりだすことができる。
・頻繁にテストをおこなうと、子供は学科そのものを学ぶことより、テストをパスするために勉強するようになる。友人からある子供の話を聞いた。その子はスペリング・テストでいつもAをとるのだが、次の週にはスペルをすっかり忘れているというのだ。
・真の勇気は世の中から隔離されていては養われない、ということも忘れられている。
・もはやアメリカ人は、運が悪いから病気になるとは誰も思わない。健康なのは健康になるようなことをちゃんとしたからだと考えるし、したがって当然、病気になるのはなにかが失敗したからだと考える。
・人々が農村から出ていき、児童就労法により子供を工場で働かせることが禁じられると、子供は経済的に見て「資産」から「負債」になった、という。
・子供を危険から守り、しかもたんこぶやすり傷ができる余地を残しておいて、次からは子供自身が注意するように仕向けるのはむずかしいことだ。
・注意:警告ラベルが貼ってあるからといって製品が安全になるわけではありません。
・子供たちが、涙ひとつこぼさずに自分のぬいぐるみをガレージ・セールで売るようなことをするのもむりはない。かんたんに取り替えのきくおもちゃで育った子供は、あとあとまで人や物に変わらぬ愛着を感じることがなかなかできなくなるだろう。
・親は本当の気持ちをおおいかくして、専門家の保証がついたことばでうわべを飾るのだ。
・アメリカは文化の多様性が約束されているといっても、商業主義と「政治的・心理的正しさ」が支配する世界では、みんなが同じようになり、ほかとちがっていると怪しまれる。
・ある母親が砂場のケンカを法廷にもちこんだ。三歳になるこの母親の子供が、よその三歳児に何回かいじめられたらしい。そこで彼女はこれをなんとかしようとした。というより、わたしの考えでは、「ほかの誰か」になんとかしてもらおうと裁判を起こしたのだろう。
・外から聞こえてくる「やったほうがいいこと」を追い払ってしまえば、内側からわき出てくる「やらなければならないこと」に気づくにちがいない。
・自分の親のようにはなりたくないが、そうかといって、どんな親になりたいかもわからないでいるのだ。
・他人のことばでしゃべる親の声の中に、子供は親の自信のなさを感じとる。親が口先だけでものをいっていることを、子供たちはたちまち見抜いてしまう。
タグ:アン・キャシディ
2013-04-06 13:50
nice!(1)
トラックバック(0)