『「哲学実技」のすすめ』 [☆☆]
・大学の哲学科では哲学研究者(哲学学者)ばかり養成していて、まったく哲学者を養成していない。
・相手が憎ければ、その憎しみを「からだ」で十分に表現せよと言いたい。しかも、あくまでもまずは言葉によって。つまり、殺したいほど憎いのであれば、徹底的に相手を「言葉で殺せ」と言いたいのだ。
・言葉で人を殺すことによって、行為によって人を殺すことを避ける。
・みずから「ほんとうのこと」を知っている場合だけ、われわれはウソをつくことができる。
・「正しい」日本語を学ぶことは、こうした心の動きを抑えつけることだからね。「察し」とか「配慮」という美名のもとに、その場や状況を考慮して語るということ、いやいかに語らないかを学ぶこと、つまり「かくしごと」を徹底的に学ぶ過程なのだから。
・例えば、「ぼくは東大出だよ。ところであなたは?」と言う日本人はいないよ。その傲慢さが顰蹙をかい、この質問を出すだけでもう非常識きわまりない者として断罪される。
・社交辞令と本心との境界はどこまでもどこまでもぼんやりしていて、意味を限りなく薄めた言葉はカラカラと空転する。
・きみが心配しなくても、誰でも放っておけば幸福について考えたがるのだよ。世に「幸福論」は山のようにあるが、「不幸論」は寡聞にして知らない。
・例えばAとBが「人を殺すことは悪い」と主張しながら、Aはその理由として「永遠の絶対的法則だから」と語り、Bは「たまたま現代日本の常識だから」と語ったとする。この場合、A、Bともに「人を殺すことは悪い」という点では一致しているのだから記述的意味は同一だが、その「悪い」理由、つまり評価的意味は異なっている。
・ただ「いじめは悪い」というテーマのもとで、それはなぜ生じたのか、それを防ぐにはどうしたらよいのか、という議論だけがエンエンと続くのだ。悪について語っているようで、そのじつ悪の周囲をぐるぐる回っているだけ。
・ぼくがずっと黙っていたのは、悪について議論することに欺瞞性を覚えるからです。悪とは実践なんであって、議論じゃない。
・欺瞞的な言葉を避けるという態度はどこまでも賞賛すべきだ。だが、だからといって、あれもこれも「わからない!」と突っぱねて澄ましている態度が賞賛すべきものでもない。
・ほくらは放っておくと、つい社会的に認知された「よいこと」を語りはじめる。それは安全で評価される言葉だから、つい口に出してしまう。
・ニュースキャスターたちが眉をひそめてふと口に出す「疑問」こそ、何も考えない言葉、誰からも批判のあがらない言葉、つまり「きれいごと」の代表だ。
・他人から「好かれたい」という気持ちのほうが「ほんとうのこと」を語りたいという欲求より強いんです。みんなから嫌われて、ただ「ほんとうのこと」だけが自分のもとに残っても、嬉しくないでしょう。むしろ寂しい感じがします。
・あなたは何もせずにただコウなるとアアなるから厭です、と言うだけだ。そんな泡のような言葉になんの力もない。
・あなたは強いからアレもコレも許されないが、自分は弱いから何でも許される、というずるく汚い態度につながる。
・弱いことを自認しては、ずるい理論しか生まれない。そこからは、なんの精神の輝きも生まれない。
・自分は「弱いから正しいのだ」そして彼は「強いから誤っているのだ」という奴隷の理論に陥る。
・凡人が「崇高な理想」なんぞもつとロクなことはないんだ。
・腕力でうち負かすと野蛮だといって誰も認めないのに、議論でうち負かすと拍手喝采する。これって、ずいぶん不平等だと思うんです。言論能力に優れた者だけが報われる構造をしていると思うんです。
・ぼくは「みんなに喜んでもらえるだけでいい」という俳優や歌手や料理人の言葉を信じない。彼らは称賛されることによって、みんなに喜んでもらえ、かつみずからの才能を技術を、いやみずからの存在を確認することができるがゆえに、嬉しいのだ。
・相手が憎ければ、その憎しみを「からだ」で十分に表現せよと言いたい。しかも、あくまでもまずは言葉によって。つまり、殺したいほど憎いのであれば、徹底的に相手を「言葉で殺せ」と言いたいのだ。
・言葉で人を殺すことによって、行為によって人を殺すことを避ける。
・みずから「ほんとうのこと」を知っている場合だけ、われわれはウソをつくことができる。
・「正しい」日本語を学ぶことは、こうした心の動きを抑えつけることだからね。「察し」とか「配慮」という美名のもとに、その場や状況を考慮して語るということ、いやいかに語らないかを学ぶこと、つまり「かくしごと」を徹底的に学ぶ過程なのだから。
・例えば、「ぼくは東大出だよ。ところであなたは?」と言う日本人はいないよ。その傲慢さが顰蹙をかい、この質問を出すだけでもう非常識きわまりない者として断罪される。
・社交辞令と本心との境界はどこまでもどこまでもぼんやりしていて、意味を限りなく薄めた言葉はカラカラと空転する。
・きみが心配しなくても、誰でも放っておけば幸福について考えたがるのだよ。世に「幸福論」は山のようにあるが、「不幸論」は寡聞にして知らない。
・例えばAとBが「人を殺すことは悪い」と主張しながら、Aはその理由として「永遠の絶対的法則だから」と語り、Bは「たまたま現代日本の常識だから」と語ったとする。この場合、A、Bともに「人を殺すことは悪い」という点では一致しているのだから記述的意味は同一だが、その「悪い」理由、つまり評価的意味は異なっている。
・ただ「いじめは悪い」というテーマのもとで、それはなぜ生じたのか、それを防ぐにはどうしたらよいのか、という議論だけがエンエンと続くのだ。悪について語っているようで、そのじつ悪の周囲をぐるぐる回っているだけ。
・ぼくがずっと黙っていたのは、悪について議論することに欺瞞性を覚えるからです。悪とは実践なんであって、議論じゃない。
・欺瞞的な言葉を避けるという態度はどこまでも賞賛すべきだ。だが、だからといって、あれもこれも「わからない!」と突っぱねて澄ましている態度が賞賛すべきものでもない。
・ほくらは放っておくと、つい社会的に認知された「よいこと」を語りはじめる。それは安全で評価される言葉だから、つい口に出してしまう。
・ニュースキャスターたちが眉をひそめてふと口に出す「疑問」こそ、何も考えない言葉、誰からも批判のあがらない言葉、つまり「きれいごと」の代表だ。
・他人から「好かれたい」という気持ちのほうが「ほんとうのこと」を語りたいという欲求より強いんです。みんなから嫌われて、ただ「ほんとうのこと」だけが自分のもとに残っても、嬉しくないでしょう。むしろ寂しい感じがします。
・あなたは何もせずにただコウなるとアアなるから厭です、と言うだけだ。そんな泡のような言葉になんの力もない。
・あなたは強いからアレもコレも許されないが、自分は弱いから何でも許される、というずるく汚い態度につながる。
・弱いことを自認しては、ずるい理論しか生まれない。そこからは、なんの精神の輝きも生まれない。
・自分は「弱いから正しいのだ」そして彼は「強いから誤っているのだ」という奴隷の理論に陥る。
・凡人が「崇高な理想」なんぞもつとロクなことはないんだ。
・腕力でうち負かすと野蛮だといって誰も認めないのに、議論でうち負かすと拍手喝采する。これって、ずいぶん不平等だと思うんです。言論能力に優れた者だけが報われる構造をしていると思うんです。
・ぼくは「みんなに喜んでもらえるだけでいい」という俳優や歌手や料理人の言葉を信じない。彼らは称賛されることによって、みんなに喜んでもらえ、かつみずからの才能を技術を、いやみずからの存在を確認することができるがゆえに、嬉しいのだ。
「哲学実技」のすすめ―そして誰もいなくなった・・・ (角川oneテーマ21 (C-1))
- 作者: 中島 義道
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 2000/12/01
- メディア: 新書
タグ:中島義道