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『無防備な日本人』 [☆☆]

・インターネットを介して、多様なメンバーを含む「自殺集団」が作られ目的を遂げたことは、多様なメンバーを含むテロ組織のような「他殺集団」もまた、容易に作りうるということを証明している。

・十分な時間的余裕を与えられれば、日本人は適応上手な国民である。だが、いかに適応が上手でも、現実の変化にあわせて意識や行動が変化する前に、当然のことながらまず事実が先行している。したがって、どうしても適応に時間的な遅れが生じる。このタイム・ラグが深刻な問題を生み出す。

・変化がきわめて緩慢であったり、微少であったりして、変化に気づく閾値を下回るような場合だと、我々は変化を知ることができない。ここには、細かな変化にいちいち反応して行動するよりも、それを無視する方が、費用対効果の観点からは一般に経済的だという事情がある。これが、正常性バイアスが生じる生物学的な理由である。

・弁別閾とは、それ以上になると、二つの刺激から得られる感覚の強さに差が現れるが、それ未満では両者を区別できない、二つの刺激量の差のことである。

・標準刺激量と弁別閾とは比例関係にあり、標準刺激が10倍になれば弁別閾も10倍になり、標準刺激が10分の1になれば、弁別閾も10分の1になる。

・これまで、日本人は安全なれしていて、安全が常態であるという無意識的な前提のもとで生活してきたため、危険を鋭く感じとる動物的な感覚を欠いている。

・専制的なリーダーが自分の上にはいてもらいたくない、非効率的でも、皆が平等であるほうがよいという意識が強すぎるのである。

・一つの災害、一つの事故、あるいは事件が起こると、情緒的な報道を視聴者が飽きるまで続けるのが、日本のメディアの特徴である。あたかも。他には重要な問題などないかのごとくである。報道がバランス感覚をまったく欠いている。

・自衛しようにも肝腎なリスク情報がなかった。行政サイドには、血友病患者たちに血液製剤の感染リスク情報を伝えて、リスク認知を共有しようとするリスク・コミュニケーションの発想がなかった。

・日本はエイズ後発国であった。欧米諸国の失敗から学び、それらの国々とは違ったコースをたどることができたはずである。

・アスベストは、ラテン語では、汚れなきものと呼ばれる。アスベスト繊維で織られた布は、火に投じると汚れが落ちて、元の美しさに戻るためである。

・リスク・マネージメントにおいて、何かをあえてすることによって犯す失敗を「作為による過誤」と呼び、何もしなかったことによってもたらされる失敗を「不作為による過誤」と呼ぶ。

・不作為による過誤は、取り返しがつかない段階になってはじめてその結果が現れるために、しばしば致命的であるばかりか、失敗自体から具体的に学ぶことができないのである。

・日常的世界において、安全をまったく危険のない状態と考えると、我々にとってその追求と実現は不可能になる。

・安全は客観的な指標によって計測可能だが、安心は主観的に存在する捉えどころのない意識常態である。

・不安とリスク認知を比べると、不安の方がリスク軽減行動を引き起こす力が大きい。頭で考える危険よりも心で感じる不安の方が、防災行動に直結するのである。知識や認知の力よりも、感情の力の方が強力である。

・もし不安を感じることがなくなれば、我々は安全を求める動機を失って、リスク軽減のために何も手を打たないということになるだろう。そのようにしてみると、我々は不安を道連れにしなければ安全への道を歩むことができないし、安心という目的地にもたどりつけないということになる。

・リスクストレスを、ひたすら恐怖にうち震えながら耐えるのではなく、一人の冒険者としてそれらを楽しむゆとりを持てるなら、我々の人生はどれほど意味のあるものとなるだろう。

・人生は充実した楽しいものであるときに、初めて生きるに値する。

・地域的な流行段階(エンデミック)、流行段階(エピデミック)、大流行の段階(パンデミック)。

・「マスメディア」→「個人・社会」→「マスメディア」の情報伝達の繋がりは、互いにより過激な情報を送出を強化し合うため、ポジティブ・フィードバックのループを作っていると言える。

・マスメディアは伝えるべきニュースがないときには、ニュースを作り出すか、同じニュースを繰り返し送出することによって、情報の受け手に意識の中により強烈な恐怖の雪だるまを転がし続けるのである。

・感染力の強さは、基本増殖率という指標で表わすことができる。これは何の予防措置もとらない場合に、一人の感染者が何人を感染させたかを調べて、平均値や中央値などで表わしたものである。この値が1.0を下回れば、流行は収束していくし、1.0を上回れば、流行は拡大していくことになる。

・「見せ食い」パフォーマンスは、日本でも何か問題が起こった時にカイワレダイコン、ホウレンソウ、牛肉などを大臣や知事などが食べて見せているで、こうした演出は社会の不安をなだめるための万国共通の手段なのかもしれない。

・未知なるリスクに対処するためには、やみくもに科学を盲信するのではなく、その時々の科学の射程とその限界への洞察力を持たなければならないのである。

・証明されていないものは存在しないという硬直した科学主義に陥るのは危険である。未知なるリスクに対しては、バランスのとれた恐怖心と柔軟な合理的精神を持って周知に対処しなければならない。

・ヘッドライトは先を照らすが、照らし出された障害をどう避けるかは、まったくドライバー自身の判断と行動に委ねられている。知りうることと、何を為すべきかを指示する処方箋がないこととの間のギャップを前にして、我々は途方にくれるのである。

・車イスと人工呼吸器にしばりつけられた状況に、彼はけっして満足しなかった。そんな状況に満足できる人は満足していればよい、自分は違うというのが、彼の本音だったのだろう。その意味において、彼は徹底的に自己中心的であった。

・100年後には、今この地球上に生きている人々のほとんどは、もはやこの世にはいないだろう。我々が眼差しをあまり遠くに向けると、すべては茫漠とした霞みの中に沈み込んでしまって、どこを探しても我々自身の具体的な姿は見えてこない。その結果、我々は諸行無常の悲観におちいらざるをえない。遠くを見すぎてはならないのである。

・晩節を汚すことを恐れて、社会的生命を生かすために生物的生命を断ったのである。

・流血と激動を日常化する戦争の時代は、リスク管理の天才を産み出す。そのような才能がなければサバイバルが不可能だからだ。

・主義主張のゆえに節をまげず、そのためにかえって没落の道をたどるのは潔しとしなかった。それは単に格好がいいというだけに過ぎない。

・いっぱいに振れた振り子は再び返ってくる。

・将来を見透かし、それまでの成り行きに拘束されずに新しい事態に最も有効に対処するためには、自分自身をガラリと変える変身が最も有効である。

・「敵に塩を送る」のは、自分が敗北した時に寛大な処置を受けるための布石であったり、「遠くの親戚よりも近くの他人」に献身的であるのも、より多くの見返りが期待できるからである。



無防備な日本人 (ちくま新書)

無防備な日本人 (ちくま新書)

  • 作者: 広瀬 弘忠
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2006/02
  • メディア: 新書



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