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『悪魔のささやき』 [☆☆]

・ドストエフスキーの『悪霊』では、ピョートルという男にそそのかされて、みんながあっという間に奇妙な行動へと走っていく。テロリズムという一つの思想が、一人の人間から別の人間に、それこそ悪霊のようにパーッと入りこみ、広がっていくさまが実に見事に描かれています。

・一般に、被害妄想的になると、人間ろくなことはありません。他人を邪推しはじめたらきりがないですからね。

・私たちは不断、他人の善意を信じて生きているけれど、他人を信じられなくなった人間は無限に他人から傷つけられる。

・自殺のかわりに人を殺す。人を殺して死刑になることで自分を破滅させようとする――そういう犯罪者は決して少なくありません。

・自分でも驚くほど恐怖感はなかった。恐怖というのは、遠い不確実な死に対してあるもので、わずかな時間の先の、それも避けようがない死の場合は怖くないのかもしれません。

・私たちは不断、自分もいつかは死ぬんだということを忘れて暮らしているけれど、それは奇跡のような偶然に支えられているにすぎない。その支えがとれてしまえば、たちまち死は眼前に現れるということを、痛いほどに思い知らされた。

・戦争に負けたとたん、そのほとんどが自己批判をしないまま、ずっと前から民主主義であったかのごとく生きはじめた。戦争中の言動など、自分自身の心のなかからさえ、すっかり消し去ってしまったかのように。

・インターネットの登場で、かつてのように国が情報を操作し国民をだますのは難しくなったけれど、私たち自身が自分をだますことは相変わらず続いているのです。

・日本が民主主義になってから生まれ、戦争を知らずに育った若者たちが、かつて特高が国民に対してやったのと同じことを教師や大学職員にしている。そして慄然としたんです。やっぱり日本人は戦後すこしも変わっていなかったのだ、と。

・戦後、民主主義社会になったとはいえ、それは自分たちで考え出した思想でも、苦労して勝ちとったものでもありません。アメリカから与えられ、敗戦から一か月ぐらいであっという間に広まったものです。

・日本の知識人というのは学識は豊富で知性が高くても、本当の意味での自分の思想を持っていない人が多いような気がします。

・フランス革命のときは、王侯貴族だけでなくカトリック教会も弾圧されました。フランスを旅行すると、首のない聖人の像が多いことに驚かされます。高いところにある像は無事ですが、低いところの聖人の首はちょん切られている。もちろん像だけではすまず、厖大な数の聖職者がギロチンで処刑されています。

・あなたのなかにも悪魔が棲んでいるんですよ、などと言うと叱られそうだけれど、ちょっと考えてみてください。派手に人が殺されるアクション映画や時代劇を楽しんで見てはいませんか。

・人間の残虐性と破壊性は、ほかの動物とは異なる。なぜなら、食べるため、防衛のために攻撃するだけでなく、殺すために殺すという殺し屋になれるから。

・被害妄想の原因となる相手が目の前にいるときも幻聴はない。幻聴というのは見えないところから聞えてくるのであって、見えるところからは絶対に聞えてこないものなんです。

・統合失調症というのは文明社会の病気です。大勢の人間が集まって組織を作るようになってから増えてきたんです。

・マルクスいわく、人というのはお金を集めはじめると必ず不必要なお金まで持ちたがり、退蔵する。物神礼拝で、お金という金色の神様にぬかずいてしまう。

・そもそも戦後日本の繁栄は朝鮮戦争とベトナム戦争の特需によるところ大です。

・ひと言で言うなら、それは社会の刑務所化によって増大したストレスです。たとえば、今、都会で多くの人が暮らしているアパートやマンション。閉鎖的な狭い空間が密接して集まっているさまは、広さは違えど刑務所の構造と非常によく似ています。

・今の子供たちは、塾や習いごとに追われているだけに、夜ぼんやりテレビを眺める時間や休日に遊びに行く時間すらないという子も多いのではないでしょうか。それを見るたび、夜と日曜には読書や無駄話が許され、ときには映画鑑賞もできる囚人たちのほうが、時間という点だけ見ればまだ自由なのかもしれない、などと思ってしまうのです。

・社会が刑務所化しているということは、言い換えれば、刑務所で起こるのと同じような問題が発生しかねないということでもあります。心理学で言う爆発反応――ほんの些細な刺激で突然キレて、予想外の行動をとることは大いにありえます。大人以上に環境の影響を受けやすい子供たちなら、なおさらでしょう。

・爆発反応は、生物学的に見れば原始的、動物的状態への退行です。火の周りをバタバタ飛びまわる蛾のようなものと考えてください。

・刑期が十年から無期にわたる長期囚は、興味を持つ対象の幅が極端に狭い。話す内容のほとんど、いやすべてが、昼食のおかずはなんだろうとか、あの看守はやさしいとか、囚人仲間の悪口といった刑務所内の日常生活に関することに限られます。外の世界で起こっていることについては、政変も戦争も娯楽も文化もまったく関心を抱きません。

・一生続くかもしれない監獄での単調な生活に耐えられるよう、無意識のうちに自分の精神を作り変えてしまったのです。これを心理学では刑務所化された状態、プリゾニゼーションと呼んでいます。

・新聞や週刊誌を読み、テレビをなめるように見ているはずなのに、私たちはかえって他人のことに無関心になっているように思えます。アフリカの民衆が飢えていようが、南米で政変が起ころうが、日本人の自殺率がG7先進国のなかで一番高かろうが、たいして気にもとめない。

・他人のことなど本質的には関心の的ではないように思えます。いや、自分のことにしても、数年先の日本や世界について考えて何かを計画するようなことはなかなかしない。

・現代人は誰も彼も心配事を持ってるけれど、その心配事の内容すらおたがいに似通っている。実に囚人的と言えます。

・イスラムの人々にとって『旧約聖書』と四福音書は必読書。だから、本当にコーランを勉強しているイスラム教徒はユダヤ教やキリスト教に対して寛容なのです。

・窃盗は手脚の切断など厳しいことで知られる刑法は、8~10世紀に成立したイスラム法に書かれているもの。コーラン自体にはそんな記述はないのです。

・学校で担任の先生に叱られて、教室を飛び出し家に帰って首を吊ってしまった小学生もいた。あの男の子にしても、先生を困らせてやろうぐらいの気持ちであって、死んだら何もかもおしまいなのだということはわかっていなかったのではないでしょうか。

・死というもの、彼岸という向こう側の世界に対する好奇心や憧れのようなものがあるんじゃないか。だから、高いところから下を見おろしたとき、とくにこれといった悩みなどなくても、フラフラッと足を踏み出したくなったりする。

・死は、生きている人間が誰も知らない世界です。何か新しいものを見せてくれるかもしれない。人間というのは死を恐れる一方で、知らないことに対してはどうしても好奇心を持ってしまう動物なんだと思います。

・人は誰でも、いつかは神様から呼び出されて処刑される死刑囚だけれど、その順番はわからない。ときどきは自分が死刑囚であることを思い出し、真剣に死と対峙しておかないと、いざ処刑の日が来たときにあわてて騒ぎ後悔することになる。

・日本人は会社を中心にしてものを考え、国家や企業が要請することをやってきた受動的態度のために、自分自身の人間としての生き方を見つけるのが非常に不得手です。だから定年になって誰からも指示を与えられなくなると、呆然としてしまう。そこで、悪魔が自殺を与えてくれるわけですよ。

・近年、日本では、「私と私の周りの人だけが大事」というミーイズムが妙に強まっています。

・今の日本を見ていると、日本人は外の世界の動きには敏感に反応します。が、それは意識の外縁部でのとらえ方で、自分自身の内面と密接に関わり会ってはいない。つまり、自分の意見を持たず、他人の意見に簡単に同調するだけという人が多いのです。

・人が自分の生き方を自分で決めるのを個人主義と言ってもいいでしょう。ところが日本では個人主義を利己主義と混同して非難する人が多いのです。

・人間は自由ではあるけれども、その自由は「天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずして我一身の自由を達することなり」と言うのです。

・意識には辺縁意識とでもいうような、ぼんやりとして、ふわふわ浮遊するようなものもあります。こちらのふわふわしてとりとめのない意識、辺縁意識のほうはテストで数量化できませんから心理学の対象にはなりにくいし、したがって研究も進んでいません。





悪魔のささやき (集英社新書)

悪魔のささやき (集英社新書)

  • 作者: 加賀 乙彦
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2006/08/12
  • メディア: 新書



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