SSブログ

『しつこさの精神病理 江戸の仇をアラスカで討つ人』 [☆☆]

・だが、あの祖父の芝居掛かった愁嘆場はどうだ。あそこまで絶望するなんて、生まれてきた赤ん坊に対して失礼であろう。赤子に同情するのではなく、自分の不運を嘆いているようにしか映らないところが私の神経を逆撫でしたのである。

・運命の分岐点となる「ほんの些細なこと」を、説得力を以って描き出すことができれば、ストーリーに収拾なんかつけなくともちゃんと文学として成立する。顛末まで書き込まなくてもしっかりと物語の膨らみを予感させてしまうからで、その点では純文学も通俗小説も区別はない。

・われわれは神の目の前で傷つき苦しんで、神に傷つき苦しむということがどういうものなのかを教えるんだ。神は自分ではそれができないからね。

・やはり得体が「知れて」こそ慣れは生じるのであり、つまり慣れるということは和解に近い性質であるから、理解の及ばない相手には成立しようがないということなのだろう。

・終わりがない、永遠に、といったパターンがわたしは根源的に怖いのである。

・幼稚なほどに分かりやすい通俗的イメージに支配されていたからこそ、彼の計画は脳内での反復に耐えたのではないか。ステレオタイプな復讐劇であったがゆえに、他者の時間感覚をぐらつかせるような執拗さに馴染んだのではないか。

・恨みや執念に属するような事柄はどれもこれも紋切り型である。どこか手垢のついたような安っぽさがあり、目新しさとは無縁である。

・統合失調症に伴う妄想はしばしば非常に長期に亘って持続するが、そうした妄想もステレオタイプであるがために現実との矛盾や齟齬に耐え得ているように映る。リアルだが繊細な妄想なんてものは、そう長くは脳内に根を下ろせない。馬鹿げているなりにマンガないし通俗小説的なイメージのほうが「丈夫で長持ち」するのである。

・どこか矮小なものを感じ取らせる。それはステレオタイプなものほど反復に耐え、また反復されるものはステレオタイプになっていくといった事情に根ざしているからではないだろうか。

・精神の均衡を失った者は、おしなべて妙に理屈っぽくなり論理的になる。

・復讐者にとって、憎き相手を前に大見得を切って見せることこそが夢なのである。そうやって自己愛を満足させ、最後に勝つ者が誰なのかをじっくり相手に思い知らせるといったプロセスがなければ、醍醐味が失せてしまう。耐え忍んできた日々に意味を与えることができなくなってしまう。

・嘘の体験の場合は、たとえば幽霊が出てきて腰を抜かしましたとか、そういった劇的シーンを以って話が終わってしまう。つまりテレビ番組の再現VTRと同じ構造で語られる。しかし本当に相手が怪談を体験している場合には、むしろ幽霊とか怪異現象と出合った後の心の動きや行動が詳しく語られるという。

・「おとしまえ」に執着する態度からは、未熟さや浅ましさや狭量さしか伝わってこないのである。

・ローランドとしてはその運命を司る神だか何だかに仕返しをしてやりたいのだが、さすがにそれは無理である。ならば自分が運命を司る存在を演じて見知らぬ人間に途方もない不条理を与えることで、結果的に神を自分と同じレベルの存在に引きずり下ろす――それがローランド流の神への復讐ということではなかったのだろうか。

・恋愛妄想はプロセスを賞味するのである。それまでの孤独で味気ない生活は、いきなり、愛の「ほのめかし」と「焦らし」と試練とに満ちた日々に変貌する。索然としていた日常は数多くの暗示がばら撒かれ、求愛の謎掛けによって意味を孕む。それは生きる糧であり、生きる価値を提供する。

・しょっちゅう「見返してやる」と宣言しつつ現状を反復している姿もまことに不毛である。

・朝のワイドショーで、ゴリラ少女というのを見たことがある。スカートを穿いたゴリラを演じることは、彼女なりに世間を生きていくための戦略であり、いっぽう違和感や屈辱感に満ちた行為でもある。あえて自尊心を捨て去り、「みっともない」を「ひょうきん」に読み替えてもらうことを期待する。何て切ない話なんだ。彼女の忸怩たる心情と孤独感、そして黒々とした憤怒を察知できない人間が世の中の大勢であることを朝のワイドショーは証明していたわけでもあり、その鈍感さのありようこそがわたしは不気味なのであった。

・何らかの分かりやすい形に自分のキャラクターを作り上げ、それに沿って行動することで自己肯定をしていく――つまり通俗的な小説や映画やドラマから類型を拝借してそれに同化していく――のは、結構多くの人が採用している生き方である。

・自暴自棄とは、間延びした自殺に他ならない。

・明治時代までは「いけない道」というものがあったかも知れない。人間がふいに気が触れて山に向かって歩き出すような、そんな狂気を誘発しやすいような何らかの条件を持った道というものがあったかも知れない。

・恨んでいるかのような頑なさはいつしか形骸化しており、もはや儀式とか慣習の類と化している。

・他人を延々と恨み続ける人、復讐を夢想し続ける人――なぜ彼らはそのように固執するのか。答えは、「それしかできない」からである。仕返しや復讐が可能なら、とっくに実行しているだろう。

・「供養」である。誰かを恨み復讐を誓うとき、人は何かを喪失させられている。自尊心、希望、立場、安寧、可能性……。その無念さや悲しみに形を与えるべく、人は胸の内に墓標を立て、弔う。祈り、供養することしかできない。供養することに終わりはない。

・反射的に反撃したり反論できない人間は、十年経とうと二十年経とうと大同小異である。その情けない事実を受け入れきれないからこそ、悔しさや怒りが新たに立ち上がる。だから恨みに終わりがない。

・復讐をしないことがそのまま相手の行為を容認するとか、自分を負け犬と任ずることであるとか、そういった論法は正しいように見えてどこかケチくさい。

・苦笑には物事を客観的に眺めるだけの余裕、何らかの真実を滑稽さと共に見出すだけのセンス、ときには諦めや敗北を受け入れるだけの度量、とりあえず現状をスルーするだけの大人の知恵、それらが込められているのである。





しつこさの精神病理  江戸の仇をアラスカで討つ人 (角川oneテーマ21)

しつこさの精神病理 江戸の仇をアラスカで討つ人 (角川oneテーマ21)

  • 作者: 春日 武彦
  • 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
  • 発売日: 2010/02/10
  • メディア: 新書



タグ:春日武彦
nice!(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

nice! 0

トラックバック 0