SSブログ

『当世もののけ生態学』 [☆☆]

・良い薬には強い副作用があるように、良い「良識」には「いかがわしさ」がともなうのが常である。つまり、「いかがわしさ」は「良識」の副作用と言えよう。

・その地域の平均定住指数が2を切ると、つまり人が2年以上定住しないようになると、共同体としてのメカニズムは崩壊し、スラム化すると言われている。

・我々と共生関係にある妖怪は、往々にして義足、義手、義歯のごとく、人間的なものに連続する人工物の違和感とよく似たニュアンスを漂わせているもの。

・現在のテレビのニュアンスは、笑うべきところかそうでないかだけで決められているのだ。

・あらゆる技術は、一定の必要をみたした段階で不要になるものであるが、いったん進歩しはじめた技術そのものは、そこでとどまることができない。

・それ自体が問題なのではなく、それが「反復」され、うんざりするほど「くり返」されているのが問題なのだ。

・時間は「流れる」ものであり、同時に「積み重なる」ものであると言われている。そして、我々を含めた他の多くの生体は、ほぼ流れる時間を、生きている。もしくは、「生きている」ということを、そのように自覚しているのである。もちろん我々も、一種の意識操作により、一瞬そうした時間を、積み重ねられたものとして――つまり「層」として感じとることができるが、実はその時我々は、流れる時間から逸脱し、観念として死んでいるのである。

・並んで同じ方向を向いて話すことによって、その話は相手により共有されやすく、面と向かって話すことによって話は、相手に批判されやすいということは、実生活においても常識とされている。

・田植えをしたことのある者なら誰でも知っていることであるが、泥の中に足を踏みこむと我々は、我々自身を「外側から感じとる」という、奇妙な感触を得ることができる。

・古代中国では、泥は人間を丸ごと映し出す鏡である、と言われていた。つまり、我々の知っている一般的な鏡は、我々自身を二次元的な映像として映し出すわけだが、泥はそれを、三次元的な立体として映し出すのである。

・人間の、妖怪に対する最初の知恵は、それにそれらしい呼称を与えることである、と言われている。

・悟りすまして「無心」の境地に達した禅宗の坊主たちは、よく似ている。彼らは確かに、「生きて」はいるが、ことさら「生きよう」とはしていないのである。

・我々は、「捨てるために手に入れる」という、生物学的には稀有の性向を身につけ、「消費を上まわる大量生産」という、あり得べからざる事態を楽々とこなしているのだ。

・今や、「捨てる」ことからはじめなければ、「もの」は流通しないのである。

・人はそこここに小さく固まり、間違っていようといまいと、信ずるところに従って生きるのがいいのである。それがたとい間違っていたとしても、間違えているのはそいつらだけなのであるから、たいしたことはない。世界が一枚岩となり、それが間違っていたら、とりかえしがつかないではないか。

・いくら楽観的な人間だって、未来がすべて「ばら色」であるとは信じていないのであるから、凶事の一つや二つ予言されたところで、どうということはなさそうに思えるが、いざその現場に立たされてみると、そうでもないのであろう。

・「ゴミ捨てるべからず」と看板を出すことにより、そこをゴミ捨て場にすることができるのである。

・空気は、「ある」時にあることが気づかれないことが多いが、「ない」時には極めて劇的に、そして致命的に知らされる。

・人間は、身体的には「空気」を、精神的には「虚無」を呼吸することで生きているのであり、ただし近代人は、「虚無」の方はなくても生きていけると考えている。





当世もののけ生態学

当世もののけ生態学

  • 作者: 別役 実
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 1993/10
  • メディア: 単行本



タグ:別役実
nice!(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

nice! 0

トラックバック 0