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『この世の偽善』 [☆☆]

・この世がかくも不条理であることを、今の日本の教育界やメディアは教えない。温室育ちの子供たちは、少しでも困難にぶつかると耐えられない。

・人生には、完全に善である存在もなければ、悪そのものという人もいません。その矛盾がわからないことが「幼児化」で、本来この矛盾に苦悩し、解決を考える方向に進むのが大人の魂であり、勇気というものだと思う。

・多くがマチェテという山刀をを使っての斬殺だったというのですが、当時のルワンダの総人口730万人中、80万人から100万人が殺害されたと見られています。

・今までに嗅いだことのない強い臭気で、「死者というのは口がきけないけれども、臭いで語る」と思いました。腐臭こそ、死者が生者に語りかける言葉なのだと。

・「話せばわかる」とか「誠意は通ずる」とかの願望でしか人間を見ようとしない今の日本と比べ、その現場は途方もなく過酷な人間のもう一方の現実を突きつけていると思います。

・点いていても電圧が一定していなかったので、電灯の輝度は不安定で突然暗くなったり、また明るくなったりする。子供の頃の私は、電気がため息をつくのだと感じていました。

・何ものにも、誰にも頼れない状況が人の世にあるという想像力が、戦後この方、平和の中で日本人に欠落してしまったと思います。

・少なくとも震災瓦礫の処理を拒絶した人は「子どもの未来のため」と言いながら、その子供というの「自分の子供」だけで、被災地の子供は念頭になかったのではないでしょうか。

・基本的に私たちが生きていく上では、「自助」「共助」「公助」という順であるべきだと思いますが、「自助」を忘れて「公助」ばかりを求める風潮がどんどん強くなってきています。

・今の日本人は綺麗事でないことは受け入れない。だから世界の本当の現実も分からないんです。

・日本人は「貧困」とか「格差」などと言う前に、何でもあることの素晴らしさ、そこをスタート地点にできる幸福を噛み締めるべきです。

・発展途上国の話をしましたが、すると、「他はどうでもいい。問題は日本の格差、貧困なのだ」という人がいます。

・仕事を割り当てるということは、実は精神の救いに深く関係のあることで、働かない人ほど不平不満が募り、潰れていくということです。

・ユダヤ教の人たちは「同志」と言う時、ヘブライ語で「共同体のために血とカネを捧げる人」を意味する「ダミーム」という言葉を使うんだそうです。

・私が一番嫌いなのは、命も懸けない、最低限のカネも出さない、それでいて「弱者」を助けなければならないと言ったり、抗議運動や示威行動をすることです。そこには自分が卑怯だという自覚がないんですね。

・そもそも外国語を使える能力はその人の母国語の能力に比例しますから、どんなに習得に時間をかけても、自分の母国語に見合う程度の外国語しか習得できません。

・たんに英語が使えるというだけでは、英語圏の人間に使役されるだけの存在になるようなものです。

・知識だけでは、人間はバーチャルな世界観しか持てません。

・アナウンサーによると、そのパトロールは火曜日と木曜日の午後6時から9まで行われるそうで、巡回時間を堂々と公表する馬鹿馬鹿しさを少しも不思議と思わないような口調でした。

・貧乏が理由で他人からカネをもらっては物乞いになる。

・現在は、弱者をいかに助けるかという議論にばかり関心が寄せられ、一生懸命働いてきちんと税金を納めるという人生のまっとうな幸福を教えることがおざなりにされすぎています。

・しょせん社会制度というものには限界があるのですから、完璧でないことに不満や怒りをぶちまけたって仕方ないんです。

・男性がどんな人生を歩んだ結果、天涯孤独になり、生活保護を受けているのか。番組ではそうした背景が伝えられていないので、自分が「無縁」になることを防ぐための教訓を得ることができない。結局、番組は、「孤独な老人が増えている。可哀想だ」という情緒的なメッセージを流しているだけなんです。これでは何にもならない。

・「高齢者は保護されて当然」と考える前に、若い人たちの負担も考えてみる必要があります。

・老人なんだから「保護してもらって当たり前」という考えはみっともないと私は思っています。

・弱者になった背景を考えることもなく、綺麗事を言い募る新聞やテレビ番組を見ていると、「弱者として振る舞った方が楽だ」というメディアによる弱者の拡大再生産が行われているような気すらします。

・安易に弱者の味方をし、社会や国を批判することが正義だといわんばかりの偽善が、テレビを中心としたメディアに溢れています。それがどれほど日本人の間から「自助」の精神を奪っているか。

・教育関係の記事でたとえば「教鞭を執る」と書くと、クレームが来ることがあるそうです。鞭が体罰を連想させるからだそうで、そんな時は「教壇に立つ」と言い換えるという。

・「職業に貴賤があってはいけない」などと言う人に限って、汗水流して働いた経験がなかったりする。

・「反戦平和」を訴える市民運動家が「ダイ・イン」と称して死んだ真似をするのを見ると、なんと軽薄で無礼な、死んだ人への冒涜ではないかとイヤになります。「ごっこ」なんです。それで自分を善い人の側に置いておけるという綺麗事ですね。

・「反戦」の目的で語られる戦争の体験談など、冷静な歴史ではない場合がほとんどだから、普遍性を持ち得ません。

・大江健三郎氏は「社会に言葉の制限があるのならば、新しい表現を作り、使っていくのが作家ではないか」とコメントしましたが、これは軍国主義時代の同調者を彷彿とさせる言葉でしかない。

・脅迫を脅迫と受け取らないのが、脅迫を無力化する最善の方法。

・「力を行使する」ことが、とことん現実感を持って受け止められなくなっている日本人が「信念」という言葉を使うことに、私はとても滑稽なものを感じざるをえません。

・日本においては、信念とは時に軽佻浮薄、善意はセンチメンタリズムと同義になるのですね。

・そうあってほしいという願望から日本人は相手を見誤るんです。

・「制服を着せられる」のが人権無視だと国連に訴え出て得意になっている日本の子供たちがいましたが、制服を着るのが嫌なら、その学校へ行かなければいい。

・「ひきこもり」は、幼い時から少しずつ、嫌なことと辛いことを、強制的にさせる癖をつけていないからです。

・「絶対に」という言葉を使わないことです。どんなこともこの世では例外が起き得る。だから断定と保証ほど無責任で恐ろしいものはない、ということです。

・代案も出さずに反対を言い募るのは、学級会民主主義の駄々っ児みたいなものでしかありません。

・マスコミは、相手が自然災害でも必ず自分以外に悪者を探し出し、それを徹底的に追及することで被害者感情を満足させようとします。

・自分の土地に産廃建設拒否を言うことは分かりますが、それだけでは困る。自分の土地ではなく、どこに、こういう形にしたらいい、という青写真くらいがあって拒否してもらいたいと思います。

・マスコミは感傷的に「弱い者」の味方だけしていれば済むというものではない。そこで立ち止まってしまう記事しか書けない記者は「アジテーター」にしかなれません。

・単なる反対はヒューマニズムでもなんでもなく、ただの利己主義であることを覚えなければならない。

・そうした「市民」の多くは、単なる「地域エゴ」を市民運動と呼ぶ「プロ市民」です。

・プロ市民は偽善的であるにもかかわらず、常に正義、人権、人道といった衣装を纏って表に出てきます。

・「<反・卒・脱>原発」ですね。このスローガンは、最近では最も簡単明瞭に世間の人気をとり、雑誌や新聞の売り上げを増やし、進歩的文化人と見なされる魔法の言葉になりました。

・読者も視聴者も、「<反・卒・脱>原発」さえ唱えていれば、自分が人権と平和を尊重するいい人間であることの保証を受けたような気になれるという便利なものです。

・いかなる運命からも学ばない時だけ、人はその悲運に負けたことになる。

・裁判長に問われても愛する男の名を明かさない白糸がこんな台詞を言うのです。「酔狂でしたことでございます」

・私は、自分が小説を書くという決心をした十代の終わりに、「酔狂」な人生を送ることを選んだわけです。「酔狂」で説明するしか自分の行動を説明する方途がありませんでした。





この世の偽善 人生の基本を忘れた日本人

この世の偽善 人生の基本を忘れた日本人

  • 作者: 金 美齢
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2013/03/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



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