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『落語の国からのぞいてみれば』 [☆☆]

・夏だと午前2時半ころに起きる。3時に出る。一時間も経たないうちに夜明けになる。冬だと、午前4時半に起きればよろしい。出るのは5時過ぎでいい。それで小一時間歩けば夜が明ける。

・夏で午前3時。冬だと午前5時。これが東海道を歩いて旅するときの旅立ちの時刻だ。春と秋は午前4時。この三つの時刻とも、昔で言うと七つになる。

・死んだ人は接した人の記憶にしか生き残っていかない。その人たちが死ぬと、消えていく。そういうものだった。

・2006年秋、六代目小さんが誕生した。前名、柳家三語楼。「柳家三語楼は、ごく普通の落語をやる、ごく普通の噺家さんでした。ただひとつ違っていたのは、お父さんは、人間国宝の、柳家小さんだったのです」。

・じいさんが文句を言うのは、自分の記憶にある「小さん」という名を、今の「小さん」で塗り替えるのはいやだ、と言っているにすぎないのだ。そゆのは、わがままって言います。

・千両以上はファンタジーで、百両を切るとお金はとても暴力的な存在になる。百両以下はたぶん想像できる範囲の大金なのだ。リアルな大金は暴力的になる。人を簡単に殺してしまう。

・老人に都合良い社会では、若者もまた老人と同じ動きをしてしまう社会になる。

・現代の人は、あまりに歩きにバリエーションを持ってないようだ。急ぐとなると、みんな急に走り出す。

・「神」は、それを祭る共同体の意識の反映なので、共同体の中心がおっさんであるかぎり、多くの神は知らぬ間にうっすらとおっさんが想定されている。だから供御の価値は、娘でないと意味がない。生殖行為的価値がある存在で、つまりは供御はセクシャルでなきゃいけないのだ。神話からセクシャルさを除いたら、子供のホラみたいになってしまう。

・江戸の歴史とアメリカの歴史って、十七世紀から本格的に始まってることを考えると、似てるんだな。江戸=アメリカってわりとシンクロした存在なのかもしれない。

・共同体を強化するために、共同体の一部を切り取って捨てなければならない、ということを教えてくれるのが人身御供の話である。

・自分ではないまわりのもの、つまり共同体の意志によって身を犠牲にするというストーリーを、人は好きなのだ。

・自然は人知を越えた動きをする。だから、いろんな自然の動きを「地球温暖化の影響か」と説明する言説がどこか馬鹿馬鹿しく聞こえるのは、人間の意識を自然の上に置いてるからですね。

・見世物小屋という世界があって、人の世界からはずれてしまうなら、そちらに身を寄せればいい、という知恵があったのだろう。いままでのように人がましくは生きられないが、でも何とか生きていけるという方法である。近代以前の弱者の方策だ。

・見世物小屋にいる人たちは、異形の人たちであり、社会からはみ出した人たちだった。世界には何かわからない不思議なエリアがあって、それはどこかでつながっていた。普段は行き来することはないが、お祭りのときだけ、少し交流できる異界だ。

・観客席から見ていて右がカミ、左がシモ。客から見ると右のほうが偉く、左のほうが位が下なわけである。演じる噺家から見ると、自分の左側が偉く、右が卑しい。





落語の国からのぞいてみれば (講談社現代新書)

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  • 作者: 堀井 憲一郎
  • 出版社/メーカー: 講談社
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