『コミュニケーションは要らない』 [☆☆]
・原発は自然に生えてきたわけではない。それを認め、許した者がいたからこそ、そこに存在しているのだ。それが間違いだったと言うのなら、前言を撤回するのでなく、それを許した時点まで遡って非を認めるのでなくては、言葉から責任というものが生まれるはずがない。
・責任や覚悟というものなしに言説だけが垂れ流しにされるなら、語らないほうが余程ましだ。
・なぜ、他人とつきあうのか? なぜ、他人と何かを共有するのか? そのことに関する根源的なテーマを持ち合わせていないのにコミュニケーションを語る者たちの言葉には内実がない。
・自分が海外で事故に遭ったとき、即座に飛行機に飛び乗って助けに来てくれる人間が自分のまわりに何人いるのか? ツイッターでコミュニケーションがとれていると思っているなら、そのことを考えてみたほうが良いのではないか。
・テレビのニュース番組やそれに類する番組というのは、秒刻みの限られた時間でうまいことを言うことを競う文化だ。いつも即物的な答えの部分だけが求められる。
・コミュニケーションする上で一番大切なことは何か? そんなものは小学生でも知っている。嘘をつかないことだ。
・言論空間には「ここから先は嘘はなしだ」という領域を確保しないとまともな議論にならない。
・コミュニケーションというのは、他人とうまくやるということを第一に考えるなら、嘘があったほうがいい。
・情緒というのは正常な思考を麻痺させる。
・すべてを廃炉にするとか空想的発想に走るのも、順番にものを考えられない者の特徴だ。
・ネット上ではすぐに「廃炉」という言葉だけが飛び交って盛り上がる。だが、廃炉というのがどういうことなのかまで深く考えはしない。この非常時にすら、大衆の多くは考えないのだ。本当にそんなに簡単に「廃炉」にできると思っているのあろうか?
・ヨーロッパやアメリカの先進国の政治家たちはみんなエドワード・ギボンが記した『ローマ帝国衰亡史』を読んでいる。彼らは「俺だけは滅びない」と言いながら滅んでいったローマを常に反面教師にしているのである。
・日本は小さな島国で逃げ場がないから、中国やロシアのようなあからさまな嘘をつく文化にはならなかった。しかし、まわりに同調するという嘘をついた。他人に嘘をつくのではなく、自分に嘘をつく天才になったのだ。
・責任をとりたくないからそういう言語空間を作り出したのではなく、そういう言語空間ができてしまったから、責任をとらなくても成り立つ社会になってしまったのだ。
・ロジックとしての言語とは、平たく言えば「書き言葉」のことだ。人間は書き言葉で文章を書くことでしか論理的にものを考えるという思考回路を身につけることはできない。
・ネットにテキストを書けば書くほど、文章力は落ちる。なぜなら、「書き言葉」を使っていないからだ。
・日本人にとっての漢文とは、欧米人におけるラテン語であり、ギリシャ語だ。
・日本人にとって漢文の教養を持つということは、論理的思考を確立するために必要不可欠なものだったのだ。だが、日本人は、易きに流れ、それをなおざりにした。
・口語を操っていても口が達者になるだけで文章は巧くならない。時と場所が違う人間が読んだら、わけのわからない得体の知れない文字列となるだけだ。
・マニュアルを書くというのはマネジメント能力であり、知識のない人間、文化の違う人間に物事のロジックを正しく伝えるという行為だ。
・マニュアルそのものが重要なのではなく、マニュアルを作るためのものの考え方こそが大切だったのだ。しかし、日本ではできあいのマニュアルのみを輸入し、そこにある考え方を学ぼうとしなかった。
・論理的思考の欠如とは、つまり「一から順番に考えられない」ということだ。正しい思考の道筋がわからないから、問題が発生したとき、自分にとって何が必要な情報なのかもわからない。だから、できる限り多くの情報を集めて安心を得ようとし、結果、その情報に振り回されることになる。
・知識をいくら詰め込んでも知識人になるだけで、知識人でも大馬鹿はいくらでもいる。教養人にバカはいない。バカにならないことをもって教養人と呼ぶ。
・昔は本なんて誰も読まなかったのだ。逆に言えば、本というものは誰もが読めるものではなかったし、ニーチェも鴎外も漱石も自分の本が誰にでも理解できるなどとは、さらさら思っていなかった。
・核武装とは常任理事国の絶対条件のひとつであり、いざとなったら喧嘩の仲裁に入れる国の資格であるからだ。その能力なしには常任理事国になどなれない。
・「こうなったらいいなあ」ではなく、「こうなったらどうしよう」ということを考えるのが本来の政治であり、共同体の意志であり、個人の覚悟だ。
・韓国から言わせれば、日本の小説や映画は民族意識の欠片も感じられないのが不思議だという。日本はなぜもっと民族意識を高揚しないのかと。答えは簡単だ。民族意識を必要としなかったからだ。
・浦和レッズを応援するより、日本代表を応援したほうが分母がでかい。ようするに、歓喜して抱き合える人間の数が多いということだ。自分が所属している集団性を目一杯拡大できるとしたら日の丸しかない。
・海外に長期滞在した人間なら一度は感じることだと思うが、向こうで一人になったときに自分の周囲に日本語がないというのはアイデンティティを喪失したような強烈な不安を感じる。
・どんな災厄に見舞われても、のど元を過ぎれば、あっけなく忘れていく。だから、津波で家を流されても、また同じ場所に同じように家を建てようとする。
・戦争とは異質な共同体同士がコミットし合い、その結果、新たな共同体が生まれることだ。それは有史以前から続いている。そういう意味で、他者との最大のコミュニケーションとは戦争でしかない。
・特定の誰かの配偶者になってしまったら選択肢はなくなる。どんなに才能があろうが、どんなに素晴らしい女性だろうが、誰かの従属物になってしまう。だから絶えず判断を保留する。
・主人公が優柔不断であるとか、根拠を持たないがゆえに起こるドラマはドラマではない。そして、日本のアニメや漫画や小説の多くはこれに当てはまる。すべての主人公が碇シンジくんであり、アムロ・レイくんであり、彼らには一様に根拠がなく動機もない。
・今回の震災において、日本の作家や文化人と呼ばれる人間たちは何ができたか。あいかわらず、自分たちには何かできるのではないかと思いあがった自問をたれ流していただけだ。
・在日外国人の参政権なんて、とんでもない話だ。彼らは確かに税金を払っているかもしれないが、参政権を持つということは同時に、いざというときにはその国のために戦うよ、ということが前提にならなければならない。在日外国人が本当に有事のときに日本のために戦えるのか?
・日常のことを決断できない人間が、大きなことを決断できるわけがない。
・戦争においても災害においても、その渦中にいる人間の情報が正しいなどという保証はどこにもない。むしろ、渦中にいる人間から発せられた情報こそ、情緒によって客観性が損なわれているという危険を考えるべきだ。
・責任や覚悟というものなしに言説だけが垂れ流しにされるなら、語らないほうが余程ましだ。
・なぜ、他人とつきあうのか? なぜ、他人と何かを共有するのか? そのことに関する根源的なテーマを持ち合わせていないのにコミュニケーションを語る者たちの言葉には内実がない。
・自分が海外で事故に遭ったとき、即座に飛行機に飛び乗って助けに来てくれる人間が自分のまわりに何人いるのか? ツイッターでコミュニケーションがとれていると思っているなら、そのことを考えてみたほうが良いのではないか。
・テレビのニュース番組やそれに類する番組というのは、秒刻みの限られた時間でうまいことを言うことを競う文化だ。いつも即物的な答えの部分だけが求められる。
・コミュニケーションする上で一番大切なことは何か? そんなものは小学生でも知っている。嘘をつかないことだ。
・言論空間には「ここから先は嘘はなしだ」という領域を確保しないとまともな議論にならない。
・コミュニケーションというのは、他人とうまくやるということを第一に考えるなら、嘘があったほうがいい。
・情緒というのは正常な思考を麻痺させる。
・すべてを廃炉にするとか空想的発想に走るのも、順番にものを考えられない者の特徴だ。
・ネット上ではすぐに「廃炉」という言葉だけが飛び交って盛り上がる。だが、廃炉というのがどういうことなのかまで深く考えはしない。この非常時にすら、大衆の多くは考えないのだ。本当にそんなに簡単に「廃炉」にできると思っているのあろうか?
・ヨーロッパやアメリカの先進国の政治家たちはみんなエドワード・ギボンが記した『ローマ帝国衰亡史』を読んでいる。彼らは「俺だけは滅びない」と言いながら滅んでいったローマを常に反面教師にしているのである。
・日本は小さな島国で逃げ場がないから、中国やロシアのようなあからさまな嘘をつく文化にはならなかった。しかし、まわりに同調するという嘘をついた。他人に嘘をつくのではなく、自分に嘘をつく天才になったのだ。
・責任をとりたくないからそういう言語空間を作り出したのではなく、そういう言語空間ができてしまったから、責任をとらなくても成り立つ社会になってしまったのだ。
・ロジックとしての言語とは、平たく言えば「書き言葉」のことだ。人間は書き言葉で文章を書くことでしか論理的にものを考えるという思考回路を身につけることはできない。
・ネットにテキストを書けば書くほど、文章力は落ちる。なぜなら、「書き言葉」を使っていないからだ。
・日本人にとっての漢文とは、欧米人におけるラテン語であり、ギリシャ語だ。
・日本人にとって漢文の教養を持つということは、論理的思考を確立するために必要不可欠なものだったのだ。だが、日本人は、易きに流れ、それをなおざりにした。
・口語を操っていても口が達者になるだけで文章は巧くならない。時と場所が違う人間が読んだら、わけのわからない得体の知れない文字列となるだけだ。
・マニュアルを書くというのはマネジメント能力であり、知識のない人間、文化の違う人間に物事のロジックを正しく伝えるという行為だ。
・マニュアルそのものが重要なのではなく、マニュアルを作るためのものの考え方こそが大切だったのだ。しかし、日本ではできあいのマニュアルのみを輸入し、そこにある考え方を学ぼうとしなかった。
・論理的思考の欠如とは、つまり「一から順番に考えられない」ということだ。正しい思考の道筋がわからないから、問題が発生したとき、自分にとって何が必要な情報なのかもわからない。だから、できる限り多くの情報を集めて安心を得ようとし、結果、その情報に振り回されることになる。
・知識をいくら詰め込んでも知識人になるだけで、知識人でも大馬鹿はいくらでもいる。教養人にバカはいない。バカにならないことをもって教養人と呼ぶ。
・昔は本なんて誰も読まなかったのだ。逆に言えば、本というものは誰もが読めるものではなかったし、ニーチェも鴎外も漱石も自分の本が誰にでも理解できるなどとは、さらさら思っていなかった。
・核武装とは常任理事国の絶対条件のひとつであり、いざとなったら喧嘩の仲裁に入れる国の資格であるからだ。その能力なしには常任理事国になどなれない。
・「こうなったらいいなあ」ではなく、「こうなったらどうしよう」ということを考えるのが本来の政治であり、共同体の意志であり、個人の覚悟だ。
・韓国から言わせれば、日本の小説や映画は民族意識の欠片も感じられないのが不思議だという。日本はなぜもっと民族意識を高揚しないのかと。答えは簡単だ。民族意識を必要としなかったからだ。
・浦和レッズを応援するより、日本代表を応援したほうが分母がでかい。ようするに、歓喜して抱き合える人間の数が多いということだ。自分が所属している集団性を目一杯拡大できるとしたら日の丸しかない。
・海外に長期滞在した人間なら一度は感じることだと思うが、向こうで一人になったときに自分の周囲に日本語がないというのはアイデンティティを喪失したような強烈な不安を感じる。
・どんな災厄に見舞われても、のど元を過ぎれば、あっけなく忘れていく。だから、津波で家を流されても、また同じ場所に同じように家を建てようとする。
・戦争とは異質な共同体同士がコミットし合い、その結果、新たな共同体が生まれることだ。それは有史以前から続いている。そういう意味で、他者との最大のコミュニケーションとは戦争でしかない。
・特定の誰かの配偶者になってしまったら選択肢はなくなる。どんなに才能があろうが、どんなに素晴らしい女性だろうが、誰かの従属物になってしまう。だから絶えず判断を保留する。
・主人公が優柔不断であるとか、根拠を持たないがゆえに起こるドラマはドラマではない。そして、日本のアニメや漫画や小説の多くはこれに当てはまる。すべての主人公が碇シンジくんであり、アムロ・レイくんであり、彼らには一様に根拠がなく動機もない。
・今回の震災において、日本の作家や文化人と呼ばれる人間たちは何ができたか。あいかわらず、自分たちには何かできるのではないかと思いあがった自問をたれ流していただけだ。
・在日外国人の参政権なんて、とんでもない話だ。彼らは確かに税金を払っているかもしれないが、参政権を持つということは同時に、いざというときにはその国のために戦うよ、ということが前提にならなければならない。在日外国人が本当に有事のときに日本のために戦えるのか?
・日常のことを決断できない人間が、大きなことを決断できるわけがない。
・戦争においても災害においても、その渦中にいる人間の情報が正しいなどという保証はどこにもない。むしろ、渦中にいる人間から発せられた情報こそ、情緒によって客観性が損なわれているという危険を考えるべきだ。
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