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『絶望の国の幸福な若者たち』 [☆☆]

・国の借金は将来世代が払わなくてはならない。それは、年老いた祖父が、孫のクレジットカードを勝手に使っている「ワシワシ詐欺」のようなものだ。

・戦争というのは、人々にある種の「平等」をもたらす。建前上は誰もが「お国のため」に戦わなければならない。

・若者論は、語る人が「若い世代には共通の特徴がある」と思っていないと成立しない。

・1953年に初の社会学者による本格的若者研究『青年社会学』は出版された。基本的には欧米圏の青年研究を参照し、それを日本の具体的な事例に当てはめるという内容になっている。今と一緒である。

・注目したいのは、その「ティーン・エイジャー」の特徴とされる行為がほぼ消費と結びついている点である。映画にしてもジャズにしても、楽しむためにお金が必要だ。それは、1950年代中頃、マーケットやメディアが消費主体(お客様)としての「ティーン・エイジャー」を発見したと言い換えてもいい。「若者はお客様」論の誕生だ。

・戦争後はある種、若者バッシングが一番難しかった時代だとも言える。戦前であれば「満州事変前の学生は素晴らしかった」のように、「ある時点までは良かったが今はダメ」という論法が使えた。ところが敗戦によって、日本はそれまでの価値観を廃棄せざるを得なくなった。そうなるとどうやって若者を叩けばいいのかわからなくる。

・現代はいい時代だ。「戦後民主主義」が70年近く続いたおかげで、堂々と「戦後民主主義が日本人をダメにした」と言えるのだから。

・今では「国民的アイドル」とは「世代を超えて親しまれる」という意味だが、1960年代初頭までの「国民的アイドル」とは、「階級を超えて親しまれる」という意味だったのである。

・今でこそ「若者はモノを買わない」という議論が流行している。だがこれは「若者はモノを買う」という前提が共有されているからこそ可能なわけで、いつまで続くかは怪しい。

・「若者はけしから」と、若者を「異質な他者」と見なす言い方は、もう若者ではなくなった中高齢者にとっての、自己肯定であり、自分探しなのである。

・若者が選挙に行かないというのは本当らしい。1995年頃が投票率のボトムなので、その時20代だった今の30代と40代に「最近の若者は投票に行かない」と言われる筋合いはないが、それ以前の世代よりも投票率は確実に下がっているのだ。

・人はどんな時に「今は不幸だ」「今は生活に満足していない」と答えることができるのだろうか。それは、「今は不幸だけど、将来はより幸せになれるだろう」と考えることができる時だという。将来の可能性が残されている人や、これからの人生に「希望」がある人にとって、「今は不幸」だと言っても自分を全否定したことにならないからだ。逆に言えば、もはや自分がこれ以上幸せになると思えない時、人は「今の生活が幸せ」と答えるしかない。

・自分たちの目の前に広がるのは、ただの「終わりなき日常」だ。だからこそ、「今は幸せだ」と言うことができる。つまり、人は将来に「希望」をなくした時、「幸せ」になることができるのだ。

・日常生活の中で僕たちが「日本」という国を意識する機会というのはあまりない。「日本」というものは、「日本」以外のものが立ち現れないと、なかなか意識されない。

・「1940年体制」は戦後も温存され、だからこそ日本が未曾有の経済成長を遂げることができた。「戦争に勝つ」という目的を、「経済大国になる」という目的に付け替えれば、総力戦体制は経済戦争にも効率的なシステムなのである。

・クレジットカードとパスポート、スマートフォンさえあれば、世界中の多くの国、特に都市部に行って困ることはなくなった。スマートフォンにSkypeアプリさえ入れておけば、ほとんどお金をかけることなく世界中と電話もできる。

・テレビは共通の番組を全国に届けた。テレビを観ていれば、最低限の教養や、「日本人意識」を知らないうちに身につけることができた。つまり、テレビは日本人の「一億総博知化」を促す教養セーフティーネットだったのである。

・本来は黒人運動だった公民権を求める闘争は「権利と機会の平等」という多義的なフレーミングを掲げたため、女性や障害者、ネイティヴアメリカン、老人など様々なマイノリティーを巻き込むことが可能になった。

・「話せばわかる」的な態度は、逆に対話の作法を持ち得ていない人の参加を拒むことになる。

・在特会のメンバーの多くは、友達がいなさそうな人ばかりだった。結局みんな「友達」や「仲間」ができて満足らしい。

・ただのデモは無駄なのか。そんなことはない。家に閉じこもっているよりは、太陽の下で街を歩いたほうが健康にも良さそうだ。共通の話題を語れる友人までできるなんて、一石二鳥である。

・良心的な科学者たちはなかなか「絶対」とは言わない。一方で科学者でない自称専門家は「絶対」という言葉を軽々しく使う。

・災害や大事件が起こると、社会学者や評論家はすぐ「社会が変わった」とか言いだす。たとえば「1995」を日本のターニングポイントと考える人はすごく多い。

・活字の本なんて大ベストセラーでも200万部、通常は数万部売れれば関係者も鼻高々の「大ヒット」だ。つまり、テレビ視聴率に直せばだいたい大ベストセラーで2%、普通のヒット作では0.1%にも届かない。深夜番組にさえ到底及ばない小さな世界のお話なのだ。

・悪化した原子力ムラの財政状況を改善するために出した答え。それは、さらなる原発の誘致だった。それは自発的でさえない、「自動的」な服従システムの完成である。

・みんなロボットのように「復興」を叫ぶが、そもそも、東北における「復興」とは何なのか。震災前と同じ状態、すなわち主力産業もなく、過疎化が進んだ集落を「復興」したところで、先は明るくない。「過去」はあるかも知れないが、そこに「未来」があるとは思えない。

・2023年には2人の現役で1人の高齢者を支える時代が訪れる。奇跡の出生率急上昇や、謎の高齢者大量失踪事件起きない限り、2072年まで現役に対する高齢者の比率は上昇し続ける。

・今では憧れの「正社員」と「専業主婦」のカップルは、かつては会社に束縛された「社畜」と、近代家族に束縛された「家事従事者」という、最悪の組み合わせだった。

・もしかしたら、若者たちはあまりにも社会志向・他人志向すぎて、「自分たち」の問題である政治には興味がないのかも知れない。カンボジアに学校は作るし、アフリカ援助には必死になれても、「自分」の所属する地方自治体で何かアクションを起こそうとは思わないのだから。なんて、いい子たちなんだろう。

・「高齢者」世代を糾弾することはできる。国民主権を掲げる議会制民主主義の国で、「高齢者」世代が投票行動を重ねてきた結果が「これ」だと。

・ネットカフェ難民は「わかりやすい貧困」だったからこそ、実数に関係なくメディアでも注目を集めたのだろう。

・ブスなら化粧で化けられるし、仕事がなくても、不景気だからと言い訳できる。でも、「友達がいない」は言い訳ができない。幼少期から形成されてきた全人格を否定されるように思ってしまう。

・低賃金の上、社会保障のことを考えなくていい。さらに農村に帰ることが前提の出稼ぎであるため、基本的に都市にスラムもできないというのも、都市側にとっては好都合だ。まるで現代の奴隷のような存在である。

・国民の平等を謳いながらも、あらゆる近代社会は「二級市民」を必要としてきた。たとえば日本を含めた近代国家は、「二級市民」という役割をずっと「女性」に負わせてきた。

・Googleは「Googleで何を検索したらいいか」までは教えてくれない。また、提示される膨大な検索結果の中から自分で「正しい」情報を選ばないとならない。だけどそのうち、Googleから検索ウィンドウが消える日が来るかも知れない。過去の自分の行動履歴をもとに、あらゆる情報はリコメンドされる。Amazonは、本の読むべき箇所までを推薦してくれるかも知れない。

・自分の生活に満足できていない人ほど「国を変えたい」とか、大きなことを言う傾向がある気がします。身近な人との関係一つうまくマネジメントできないで、何が「国」だ──とか思うんですけど。

・文系の研究のいいところの一つは、必ずしも「特別」な研究機器や研究資料を用いなくてもいいことだ。本を読んだり、人に話を聞いたり、インターネットで統計を探したりして集めたデータを並べて組み合わせれば、「研究」になってしまう。





絶望の国の幸福な若者たち

絶望の国の幸福な若者たち

  • 作者: 古市 憲寿
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2011/09/06
  • メディア: 単行本



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  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2011/09/05
  • メディア: Kindle版



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