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『嫌われる勇気』 [☆☆]

・人は誰しも、客観的な世界に住んでいるのではなく、自らが意味づけをほどこした主観的な世界に住んでいます。

・もしかするとあなたは、サングラス越しに世界を見ているのかもしれない。そこから見える世界が暗くなるのは当然です。だったら、暗い世界を嘆くのではなく、ただサングラスを外してしまえばいい。

・アドラー心理学では、過去の「原因」ではなく、今の「目的」を考えます。ご友人は「不安だから、外に出られない」のではありません。順番は逆で「外に出たくないから、不安という感情を作り出している」と考えるのです。

・カウンセラーや精神科医は、ただ「あなたが苦しんでいるのは、過去のここに原因がある」と指摘するだけ、また「だからあなたは悪くないのだ」と慰めるだけで終わってしまいます。いわゆるトラウマの議論などは、原因論の典型です。

・我々は自分の経験によるショック──いわゆるトラウマ──に苦しむのではなく、経験の中から目的にかなうものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである。

・ある人の過去に、両親の離婚という出来事があったとしましょう。これは18度の井戸水と同じ、客観の話ですね? 一方、その出来事を冷たいと感じるか温かいと感じるか。これは「今」の、そして主観の話です。

・答えとは、誰かに教えてもらうものではなく、自らの手で導き出していくべきものです。他者から与えられた答えはしょせん対症療法にすぎず、何の価値もありません。

・大切なのは何が与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである。

・あなたが変われないでいるのは、自らに対して「変わらない」という決心を下しているからなのです。

・もしも「このままの私」であり続けていれば、目の前の出来事にどう対処すればいいか、そしてその結果どんなことが起こるのか、経験から推測できます。一方、新しいライフスタイルを選んでしまったら、新しい自分に何が起きるかもわからないし、目の前の出来事にどう対処すればいいかもわかりません。つまり人は、いろいろと不満はあったとしても、「このままの私」でいることの方が楽であり、安心なのです。

・短所ばかりが目についてしまうのは、あなたが「自分を好きにならないでおこう」と、決心しているからです。

・人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである。これはアドラー心理学の根底に流れる概念です。

・自らの劣等コンプレックスを言葉や態度で表明する人、「AだからBできない」といっている人は、Aさえなければ、私は有能であり価値があるのだ、と言外に暗示しているのです。

・10本の指すべてにルビーやエメラルドの指輪をつけているような人は、美的センスの問題というより、劣等感の問題、つまり優越コンプレックスの表れだと考えたほうがいいでしょう。

・自らの不幸を「特別」であるための武器として使っているかぎり、その人は永遠に不幸を必要とすることになります。

・健全な劣等感とは、他者との比較の中で生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるものです。

・怒りをコントロールする、とは「我慢する」ことですよね? そうではなく、怒りという感情を使わないで済む方法を学びましょう。怒りとは、しょせん目的をかなえるための手段であり、道具なのですから。

・怒りっぽい人は、気が短いのではなく、怒り以外の有用なコミュニケーションツールがあることを知らないのです。

・一緒にいて、どこか息苦しさを感じたり、緊張を強いられるような関係は、恋ではあっても愛とは呼べない。人は「この人と一緒にいると、とても自由に振る舞える」と思えたとき、愛を実感することができます。

・そんなものは「元気を出せ」と肩を叩いてアドバイスしたつもりになっている愚かな指導者と同じです。だってそうでしょう、こちらは元気が出ないから困っているのに!

・アドラー心理学では、他者から承認を求めることを否定します。

・いったいどうして人は他者からの承認を求めるのか? 多くの場合それは、賞罰教育の影響なのです。

・賞罰教育の先に生まれるのは「ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」「罰する人がいなければ、不適切な行動もとる」という、誤ったライフスタイルです。

・我々は「他者の期待を満たすために生きているのではない」のです。他者の期待など、満たす必要なないのです。

・我々は「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです。

・およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏みこむこと──あるいは自分の課題に土足で踏みこまれること──によって引き起こされます。

・誰の課題かを見分ける方法はシンプルです。「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考えてください。

・ある国に「馬を水辺に連れて行くことはできるが、水を呑ませることはできない」ということわざがあります。

・他者にどう思われるかよりも先に、自分がどうあるかを貫きたい。つまり、自由に生きたいのです。

・他者を仲間だと見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを、共同体感覚といいます。

・退学届け一枚で縁が切れる共同体など、しょせんその程度のつながりでしかありません。

・我々が対人関係の中で困難にぶつかったとき、出口が見えなくなってしまったとき、まず考えるべきは「より大きな共同体の声を聴け」という原則です。

・ほめるという行為には「能力のある人が、能力のない人に下す評価」という側面が含まれています。

・人が他者をほめるとき、その目的は「自分よりも能力の劣る相手を操作すること」なのです。

・もしもあなたが、ほめてもらうことに喜びを感じているとすれば、それは縦の関係に従属し、「自分には能力がない」と認めているのと同じなのです。ほめることは「能力のある人が、能力のない人に下す評価」なのですから。

・一番大切なのは、他者を「評価」しない、ということです。評価の言葉とは、縦の関係から出てくる言葉です。もしも横の関係を築けているのなら、もっと素直な感謝や尊敬、喜びの言葉が出てくるでしょう。

・「ありがとう」は評価ではなく、もっと純粋な感謝の言葉です。

・人は感謝の言葉を聞いたとき、自らが他者に貢献できたことを知ります。

・無邪気に振る舞うことを、私の自意識が許してくれないのです。

・「変えられないもの」に注目するのではなく、「変えられるもの」に注目するしかないでしょう。私のいう自己受容とは、そういうことです。

・神よ、願わくば私に、変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ。キリスト教社会で古くから口承されてきた「ニーバーの祈り」という有名な言葉です。

・たとえ信用に足るだけの客観的根拠がなかろうと、信じる。担保のことなど考えずに、無条件に信じる。それが信頼です。

・我々には、信じることができます。疑うこともできます。そして我々は、他者を仲間と見なすことをめざしています。信じることと疑うことのどちらを選択するかは、明らかでしょう。

・たとえ叱られるという形であっても、子供は親から注目を得たい。どんな形でもいいから「特別な存在」でありたい。どれだけ叱っても子供が問題行動をやめないのは、ある意味当然のことなのです。叱るからこそ、問題行動をやめない。親や大人たちは、叱るという行為を通じて、注目を与えているのですから。

・普通で拒絶するあなたは、おそらく「普通であること」を「無能であること」と同義でとらえているのでしょう。

・深刻になってはいけません。真剣であることと、深刻であることを取り違えないでください。

・大きな天災に見舞われたとき、原因論的に「どうしてこんなことになったのか?」と過去を振り返ることに、どれだけの意味があるでしょうか? 我々は困難に見舞われたときにこそ前を見て、「これから何ができるのか?」を考えるべきなのです。

・「他者に貢献するのだ」という導きの星さえ見失わなければ、迷うことはないし、何をしてもいい。嫌われる人には嫌われ、自由に生きてかまわない。

・「私」が変われば「世界」が変わってしまう。世界とは、他の誰かが変えてくれるものではなく、ただ「私」によってしか変わりえない。





嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

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嫌われる勇気

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