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『なぜ時代劇は滅びるのか』 [☆☆]

・実は「『水戸黄門』すら終わってしまう」時点ではなく、「『水戸黄門』しか残らなくなった」段階で、テレビ時代劇のレギュラー枠は実質的には地上波から消滅していたといっていい。

・多額の予算を必要とする時代劇の場合、大企業がつかないと、支えられないのだ。そして、高齢者が主要視聴者である限り、そうした企業からは敬遠されてしまう。つまり、時代劇=高齢者向けという状況こそが、時代劇復活を妨げる大きな要因となってしまっているのである。

・時代劇は誰も経験したことのない時代が舞台であるため、観客にとって説得力のある表現にさえなっていれば──極端に言えば──何をやっても許される。

・これらの作品の作り方は「効率化」と言えば聞こえがいいが、実のところ「目先の利益を求めたための手抜き」とも言うことができる。

・「高齢化社会」だからといって、そこに特化して若い視聴者・観客を切り捨ててしまえば、次世代のファンが醸成される入口はなくなり、世代断絶が生じるのは当然だ。

・「時代劇に高齢者ファンが多い」といって、彼らは歳をとってから時代劇を好きになったわけではない。子供の頃から日常的な娯楽として親しんできたからこそ、「時代劇を楽しむ」ことが自然とできている。

・「伝統を守る」ことは、先例をただ遵守することではない。培ってきた技術を背景に、現代のテクノロジーに合った形で、現代の観客の心に届く表現をしていくことなのだ。

・時代劇とは「史実はこうだった」を伝える「歴史的事実の再現」ではない。「こんな人がいたら面白い」「こんなことが起きたら面白い」を描く「創作されたファンタジー」である。『鬼平』もまた、そうしたファンタジー性豊かな時代劇だ。

・近年の役者は基礎がないから、役柄に応じて発声を使い分けることはできない。太い声を出すことも、軽妙なセリフ回しもない。彼らには棒読みで喋るか、大声を出すか、泣きわめくかしかない。

・時代劇で最も大切なのは「ウソを本当に見せる技術」である。それを否定し、現代的な日常間の「自然体」で演じてしまえば、設定や衣装などの「ウソ」の部分がかえって際立ち、見る側はシラけるだけだ。時代劇において「自然体」とはただの手抜きでしかない。

・巨大産業になったことで、テレビ局に入社する人間はクリエイティブな志の強い者よりも、「人気企業だから」と受けにきた優等生ばかりになった。

・登場人物の内面を片っ端から丁寧に描こうとする悪平等に作り手たちが陥っているから説明過剰になるのだが、その結果、時代劇から「悪」がいなくなってしまった。

・時代劇の場合、悪役の内面を描けば描くほど、物語の盛り上がりはなくなる。最後になって延々と心情を語りたがるような卑小な悪役を斬ったところで、観客にはなんらカタルシスは生まれないし、それまでの戦いを観ることに費やした時間そのものが無駄な時間に思えてくる。

・近年の大河ドラマの主人公たちのほとんどは、理想論ばかりで何ら具体的な実績をあげていない。にもかかわらず、最初から最後まで周辺の評価だけやたらに高いままだ。つまり、何かした人間より口だけの人間が評価される。そんな価値観に基づいた世界なのだ。

・清濁併せ飲み、虚々実々の駆け引きができるようになること。それがかつての大河における「成長」であった。だが、『利家とまつ』以降は「自らの理想と信念を貫いて周囲を変化させていくこと」が「成長」と捉えられるようになった。そこには、苦渋の決断をめぐる葛藤は存在しない。





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