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『正義の偽装』 [☆☆]

・停滞した政治や社会をアメリカやイギリスあたりでは「ジャパナイゼーション」などといい、「何も決めることのできない日本」が世界の典型的な日本評と事態になっていました。

・本当に政治的リーダーシップがあるのなら、官僚を自在い使いこなす能力と知恵を持っているはずで、行政機構を目の敵にする必要もありません。要は自分たちの政治的未熟を糊塗し、大衆の支持をえるために官僚批判をしているということになってしまいます。

・日本のように、戦後でみても相当な勢いで70年近くストックを積み上げてきた国では、フローとしてのGDPの増加率が低下するのはあまりに当然のことといわねばなりません。

・社会にそれだけの余裕がなくなると、「一皮むけば」さもしい利己心と欲望が、何やら「政治的正しさ」を装って声高に主張される。

・政治家に「われわれ」と同じ「庶民感覚」を期待しておき、しかも自分の利益や思いが実現されないときには、「決断しない」とか「責任をとらない」といって不平を並べるのです。

・結局、最終的な責任の主体は天皇にゆきつく。ところが、天皇は「神聖にして侵すべからざる」存在なので、誰も天皇の責任を問うことはできない。かくて、天皇主権国家である戦前の日本においては、責任の主体が存在しない。

・自分で判断できなければどうするか。いうまでもなく「大勢」に従うほかないでしょう。「大勢」に従うとはまた、状況を読むということです。

・領土問題にはどうしても「実力行使」という側面がでてきてしまうのです。最終的に「力」がでてくるのです。ところが日本はその「力」を行使できないのです。

・多くの場合は、憲法にこの種の非常事態が記載されています。戦争状態や非常事態においては、大統領に全権が移譲されるといったような規定があるのです。ところが日本国憲法にはそれがありません。なぜなら非常事態が想定されていないからです。

・私は小説など書いたこともありませんが、おそらく「世間」と合わない、という感じがなければ小説などというものは書けないでしょう。

・ではなぜ彼らは日本のムラ社会を批判したのか。端的にいえば、彼らは自分が日本社会に入れられていない、と感じていたからです。概して秀才で頭でっかちの左翼知識人は個人主義的な傾向が強く、確かに「日本型ムラ社会」になじめません。

・「公のもの」を優位におく共和主義と「私の事情」から出発する民主主義が日本では混同され、民主主義が「公のもの」という建前をとりながら、実はとことん「私の事情」で動く、ということになってしまうのです。

・もともとギリシャ語で「支配」を表したのは「アルケイン」という言葉でした。「アルケイン」とは「引率する」といった意味の言葉で、ここで意味されていることは、「人々」は誰か筆頭者によって「引率」されている、ということなのです。

・「専門家」すなわち「エキスパート」の「パート(pert)」は「小生意気な」とか「でしゃばり」という意味ですから、もともと「専門家」とは「外へ(ex)向かってしゃしゃりでる小生意気な者」というような意味合いがあって、最初から面倒な人だったようです。

・戦後の共産党をはじめとするいわゆる左翼は基本的に天皇制反対で、民主主義と天皇制は両立しない、と考えてきました。もっともそのわりには、その天皇制をどっしりと第一条に掲げている憲法については護憲の立場を譲らないのですから、どちらが本音なのかよくわかりません。本当に天皇制廃止なら改憲にまわるほかないのです。





正義の偽装 (新潮新書 554)

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