『かまわれたい人々』 [☆☆]
・現代社会は「自由」の価値を声高に叫ぶ社会です。ただし、実際に人々が実現してきているのは、人から「かまわれない自由」です。
・人から「かまわれない自由」は、「かまわれない孤独」に容易に転嫁する。
・開ききったバカどもの中で、自分だけ過剰に閉じこもるのも心地好い。
・客が風俗嬢に何を求めているのかを雄弁に物語るのが「話をするだけの客」です。友達や同僚、恋人には言えないことでも、自分の生活に関係がない相手だから言うことができます。そう思って話したがために、今度は「誰も知らない自分の秘密」を知っている存在になってしまい、急速に親近感を抱くということもよくある話です。
・かつての地域社会は、人々が相互に見る・見られる機会を濃密に含んでいた。
・誰にも「かまわれない自由」は、誰かに「かまわれたい欲望」「かまってほしい願望」を生んでいる。
・車椅子での生活を経験したことのない人たちには、「スロープがある=車椅子の人でも一人で楽にのぼれる」と認識しています。それゆえ、スロープをのぼる車椅子利用者を手助けしようとする人はあらわれません。
・バリアフリーで「かまわれない自由」は手にした。けれども、そのために、周囲の人はかまってくれなくなった。
・商品の問い合わせと思いきや実は人生相談だった――。企業の商品相談窓口にプライベートな話を切り出す「消費者」が増えている。身近に聞き役がいない人には格好の話し相手。
・責任や義務が伴うのを避けるがために、今一歩そこの領域に踏み込めず、結局は人間として、最高の喜びや満足感をも味わうことができない物足りなさ……。
・事件の加害者・被害者がともに新老人という事件が多発するのも、彼らの生活範囲、人間関係が、この情報化社会において驚くほど狭小で閉じられているからだ。
・「過去の栄光」を持ち出すのは、ひとつには自分を周囲に認めさせたいという動機があるでしょう。もうひとつは、濃密な関係を作りたいという動機です。つまり、お互いに自分の過去やプライベートな事柄をオープンにして「裸のつきあい」をしたい。
・「自由」に使うことのできる時間はいくらでもあります。でも、自分のスケジュールを決めることができません。
・誰にもかまわれないで、一人で好きなところにも行けます。でも現実は生活範囲が狭く、同じ店に通うことしかできません。
・教わる機会を受け身で待っていてはいけないのだ。こちらから質問しない限り、黙っていても誰も仕事を教えてはくれない。
・仕事の流れを理解してから手をつけていては遅い。足手まといになることを気兼ねしていては何も始まらない。
・自分が受けた好意と同程度の返礼をすれば、義理を果たしたことになりますので、義理は等価交換の一つといえるでしょう。
・会社人間は、自分を採用してくれた職場に対して、恩という「負債」を抱えていると感じています。だから、恩返しをしようとします。すなわち、仕事が恩返しなのです。
・家族が繋がるには「楽しさ」を共有することがとても大事になってきている。だから、「楽しいこと」をたくさん子供に与えて「思い出作り」してやることが、将来へ向けての親子の絆作りとして大切だと語る主婦たちもいる。
・誕生日に友達を呼んでパーティーを開き、子供の喜ぶ姿をビデオカメラに撮ろうとする執拗な態度は、そうでもしないとつなぎとめられない家族の切羽詰まった姿でもある。
・都市に「ハレハレの状況」が登場したとはいえ、それも定着してしまえば、あらたなケと化してしまいます。
・人がペットを飼う理由として、かけがえのない存在になりたいという動機をペットが叶えてくれるからだ、と指摘しています。
・ユーモアは無償で生み出して振りまくものではない。人気と愛を勝ち取るために使うものだ。
・誰が何を考えていようと、社会の中でそれぞれが決められた役割を演じれば、何事もなく一日は過ぎていく。
・人気者にも必ずつぎはぎがあるものだ。所詮は一人の人間、全てが素晴らしいわけではない。そのつぎはぎをいかにうまく隠すか。凡人と人気者の差はそこにある。
・くだらないおしゃべりは仲良いことを証明する一番簡単で効果のある方法だ。
・「笑い」は人を勘違いさせる。楽しいと思うことが続けば、そのうちそれは「好き」という感情に掏り替えられて、いつしか一緒に笑える友達は親友に為り代わっていく。
・一緒に遊びに行く、というか同じ時間を大量に過ごすことで、薄っぺらい絆が強くなっていくような勘違いを起こす。
・孤独を癒すことができるのは、人とのつながりではない。孤独を癒すことのできる、ただ、一つの道。それは、孤独から抜け出すことではなく、より深く、より深く、その孤独を深めていくことだ。
・表面的な人間関係は、さらに孤独を強化するだけだ。
・「一人」でいることのできる人の人間関係は、とても自由で、柔軟で、開かれたものです。
・「世間」は、「変な人間」がいないかどうか「冷たい視線」で見つめる存在。
・世間はもともと虚偽に満ちていて、そんなことは世間の方でもわかっている。わかった上で、世間は世間なのである。それを虚偽だ不正だといっても、悪役に「何で悪い役をするんだ」といっているようなものだ。
・自由に生きたいけれど、死にそうになったら助けてくれという人は、自由に生きる資格がない。
・勉強ができない子供がいるとします。ひと昔前なら、本人の努力が足りないとか、そもそも本人に能力があまりない、といわれました。現在は、先生の教え方や意欲に問題がある、といわれます。「子供がちゃんと教えてもらっていない」というわけです。
・個人主義がまともに定着しなかったがゆえに、自由というものは「他人を害してはいけない」という限界を本質的に含んでいるのだということを未だに理解すらできない。
・パターナリズムに慣れてしまい、授業中に平気で私語ができる「してもらう主義」の人々を、私は「家畜系」と呼びたいと思います。
・「肉食系」も「草食系」も、自らエサをもとめて行動します、しかし「してもらう主義」の人は、飼い主にエサをもらい、育ててもらうのですから、家畜に似ています。
・「肉食系」や「草食系」は野生である以上、敵の有無に敏感です。敵に襲われないか、ずっと周囲に気を配っています。一方の「家畜系」は、敵に鈍感です。飼い主に守られていますから、敵に襲われる心配はほとんどありません。ですから、敵に対する警戒心ではなく、仲間に対して敏感になります。仲間の顔色をうかがうのに神経を使わなければなりません。
・「してくれ!」「かまってくれ!」という「世間」のご要望に社会が応えてあげようとするのです。その理由は、商売になるからです。
・「お客様」に敬意を払うのは、お金を払ってくれるからです。あくまでお金と敬意の交換です。だから、お金が払えない人は、敬意も払ってもらえません。
・おそらく、一人でランチする学生を見かけたら「この子、かわいそう」などと見下している学生が、自分が一人になったとき、そんなふうに見下されたくないので、「便所飯」しなければならなくなるのでしょう。
・人から「かまわれない自由」は、「かまわれない孤独」に容易に転嫁する。
・開ききったバカどもの中で、自分だけ過剰に閉じこもるのも心地好い。
・客が風俗嬢に何を求めているのかを雄弁に物語るのが「話をするだけの客」です。友達や同僚、恋人には言えないことでも、自分の生活に関係がない相手だから言うことができます。そう思って話したがために、今度は「誰も知らない自分の秘密」を知っている存在になってしまい、急速に親近感を抱くということもよくある話です。
・かつての地域社会は、人々が相互に見る・見られる機会を濃密に含んでいた。
・誰にも「かまわれない自由」は、誰かに「かまわれたい欲望」「かまってほしい願望」を生んでいる。
・車椅子での生活を経験したことのない人たちには、「スロープがある=車椅子の人でも一人で楽にのぼれる」と認識しています。それゆえ、スロープをのぼる車椅子利用者を手助けしようとする人はあらわれません。
・バリアフリーで「かまわれない自由」は手にした。けれども、そのために、周囲の人はかまってくれなくなった。
・商品の問い合わせと思いきや実は人生相談だった――。企業の商品相談窓口にプライベートな話を切り出す「消費者」が増えている。身近に聞き役がいない人には格好の話し相手。
・責任や義務が伴うのを避けるがために、今一歩そこの領域に踏み込めず、結局は人間として、最高の喜びや満足感をも味わうことができない物足りなさ……。
・事件の加害者・被害者がともに新老人という事件が多発するのも、彼らの生活範囲、人間関係が、この情報化社会において驚くほど狭小で閉じられているからだ。
・「過去の栄光」を持ち出すのは、ひとつには自分を周囲に認めさせたいという動機があるでしょう。もうひとつは、濃密な関係を作りたいという動機です。つまり、お互いに自分の過去やプライベートな事柄をオープンにして「裸のつきあい」をしたい。
・「自由」に使うことのできる時間はいくらでもあります。でも、自分のスケジュールを決めることができません。
・誰にもかまわれないで、一人で好きなところにも行けます。でも現実は生活範囲が狭く、同じ店に通うことしかできません。
・教わる機会を受け身で待っていてはいけないのだ。こちらから質問しない限り、黙っていても誰も仕事を教えてはくれない。
・仕事の流れを理解してから手をつけていては遅い。足手まといになることを気兼ねしていては何も始まらない。
・自分が受けた好意と同程度の返礼をすれば、義理を果たしたことになりますので、義理は等価交換の一つといえるでしょう。
・会社人間は、自分を採用してくれた職場に対して、恩という「負債」を抱えていると感じています。だから、恩返しをしようとします。すなわち、仕事が恩返しなのです。
・家族が繋がるには「楽しさ」を共有することがとても大事になってきている。だから、「楽しいこと」をたくさん子供に与えて「思い出作り」してやることが、将来へ向けての親子の絆作りとして大切だと語る主婦たちもいる。
・誕生日に友達を呼んでパーティーを開き、子供の喜ぶ姿をビデオカメラに撮ろうとする執拗な態度は、そうでもしないとつなぎとめられない家族の切羽詰まった姿でもある。
・都市に「ハレハレの状況」が登場したとはいえ、それも定着してしまえば、あらたなケと化してしまいます。
・人がペットを飼う理由として、かけがえのない存在になりたいという動機をペットが叶えてくれるからだ、と指摘しています。
・ユーモアは無償で生み出して振りまくものではない。人気と愛を勝ち取るために使うものだ。
・誰が何を考えていようと、社会の中でそれぞれが決められた役割を演じれば、何事もなく一日は過ぎていく。
・人気者にも必ずつぎはぎがあるものだ。所詮は一人の人間、全てが素晴らしいわけではない。そのつぎはぎをいかにうまく隠すか。凡人と人気者の差はそこにある。
・くだらないおしゃべりは仲良いことを証明する一番簡単で効果のある方法だ。
・「笑い」は人を勘違いさせる。楽しいと思うことが続けば、そのうちそれは「好き」という感情に掏り替えられて、いつしか一緒に笑える友達は親友に為り代わっていく。
・一緒に遊びに行く、というか同じ時間を大量に過ごすことで、薄っぺらい絆が強くなっていくような勘違いを起こす。
・孤独を癒すことができるのは、人とのつながりではない。孤独を癒すことのできる、ただ、一つの道。それは、孤独から抜け出すことではなく、より深く、より深く、その孤独を深めていくことだ。
・表面的な人間関係は、さらに孤独を強化するだけだ。
・「一人」でいることのできる人の人間関係は、とても自由で、柔軟で、開かれたものです。
・「世間」は、「変な人間」がいないかどうか「冷たい視線」で見つめる存在。
・世間はもともと虚偽に満ちていて、そんなことは世間の方でもわかっている。わかった上で、世間は世間なのである。それを虚偽だ不正だといっても、悪役に「何で悪い役をするんだ」といっているようなものだ。
・自由に生きたいけれど、死にそうになったら助けてくれという人は、自由に生きる資格がない。
・勉強ができない子供がいるとします。ひと昔前なら、本人の努力が足りないとか、そもそも本人に能力があまりない、といわれました。現在は、先生の教え方や意欲に問題がある、といわれます。「子供がちゃんと教えてもらっていない」というわけです。
・個人主義がまともに定着しなかったがゆえに、自由というものは「他人を害してはいけない」という限界を本質的に含んでいるのだということを未だに理解すらできない。
・パターナリズムに慣れてしまい、授業中に平気で私語ができる「してもらう主義」の人々を、私は「家畜系」と呼びたいと思います。
・「肉食系」も「草食系」も、自らエサをもとめて行動します、しかし「してもらう主義」の人は、飼い主にエサをもらい、育ててもらうのですから、家畜に似ています。
・「肉食系」や「草食系」は野生である以上、敵の有無に敏感です。敵に襲われないか、ずっと周囲に気を配っています。一方の「家畜系」は、敵に鈍感です。飼い主に守られていますから、敵に襲われる心配はほとんどありません。ですから、敵に対する警戒心ではなく、仲間に対して敏感になります。仲間の顔色をうかがうのに神経を使わなければなりません。
・「してくれ!」「かまってくれ!」という「世間」のご要望に社会が応えてあげようとするのです。その理由は、商売になるからです。
・「お客様」に敬意を払うのは、お金を払ってくれるからです。あくまでお金と敬意の交換です。だから、お金が払えない人は、敬意も払ってもらえません。
・おそらく、一人でランチする学生を見かけたら「この子、かわいそう」などと見下している学生が、自分が一人になったとき、そんなふうに見下されたくないので、「便所飯」しなければならなくなるのでしょう。
タグ:森真一
2017-04-16 12:06
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