『知の仕事術』 [☆☆]
・議論はない。その代わりに罵倒の応酬がって、それで事が決まってゆく。
・金の場合、原石1トンにつき0.5グラムが採算分岐点だそうだ。同じように本も大量に刊行されるものの中から、最小限の手間で必要な本を選び出さなければならない。
・書評は本を選ぶアンテナとして役に立つ。年間に8万点出る新刊を、数百点まで圧縮してくれるわけだから。
・誰か厳密に計らなければ世の中は聖者だけになってしまう。
・名詞の複数形とみれば「諸」をつける愚劣さ。それで英文を読んだと錯覚する鈍感さ。マルクス関係の本の翻訳に出てくる「諸価値」を「価値観」と、あるいは価値体系と訳してごらんよ。諭旨がどんなに大きく変わり、筋が通ることか。
・新刊書店には、古い本でいいものはほとんど置いていない。この傾向は年々強くなっている。
・古本屋は、店舗がなくても成り立つ商売になった。客に店まで来てもらう必要はもうない。古本を仕入れて分類して、値をつけて、インターネット上のマーケット「日本の古本」に出しておけば、日本中から注文が来る。
・読書にカリキュラムはないし卒業もない。永遠の留年状態。
・イギリス人は非常に伝記が好きなのだ。イギリスの書店に行くと、「F」(フィクション)と並んでバイオグラフィーの「B」という分類の棚がある。そのくらい好き。
・いいエッセーの条件の一つは適量の生活感が入っていること。適量という点は大事で、多すぎるとおばさんやおじさんの投稿になってしまう(「……と思う今日このごろである」とか、「……と思うのは私一人ではないだろう」のたぐい)。
・いきいきとした日常生活のエピソードから出発して、2、3回論理の宙返りを経た上で説得力のある結論に至る。これが優れたエッセーの基本形です。
・ぼくは本は私的な所有物であると同時に公共財であるという意識から逃れられない。だから、ぼくはどんな本でもいずれ手放すと意識をして扱う。
・買ったら買いっぱなし、読んだら読みっぱなしでは書棚は更新されない。
・最初から数を限るなら、それは本ではなくて工芸品でしょう。
・昔、教養とは知識のストックであった。頭の中に過去の偉人たちの言葉がたくさん入っていれば、それだけ人格がみがかれ、いざという時にも知識は身を助けると人は信じていた。
・農業を始めて、穀物という備蓄可能な食糧を得た。備蓄可能はすなわち強奪可能だから戦争というものが始まった。
・我々の生産は技術によって支えられている。だから技術、つまりテクノロジーが変わったら、生産方法も変わらなければならない。
・最もアイディアが湧くのは、実は書いているときだ。書くというのはすなわち考えること。
・『ニューズウィーク』の日本版サイトをときどき見る。ここは、アメリカ的偏見はあるかもしれないが、日本の週刊誌的偏見はないから。
・コンピュータが使われ始めたとき、「ペーパーレス」という表現が流行った。結果的には、これは間違いだった。プリントしやすくなり、むしろ使用量は増えた。
・「税」について、「納税者とは、国家公務員試験を経ないで連邦政府のために働く人々である」。これはなんとレーガン元大統領のお言葉。
・印刷が可能になって、人々の手に1冊ずつでも渡るようになった。だからプロテスタントは信者が自分で聖書を読むようになったんです。カトリックの世界では、聖書は自分で読むものではなかったんです。
・グーテンベルクの発明によって「音読の世界」から「黙読の世界」になった。それまで神父さまの手元にのみあって、集団で大きな声で読むしかなかった本が、印刷されるようになると一人一人が自分の部屋で声を出さずに目で読まれるようになる。これは大きな変化でした。
・トーキーが盛んになったことで弁士たちが困り、一方では声があまりにひどいので生き残れなかった映画俳優たちもいた。
・素晴らしいクオリティの写真です。しかし、印刷ではそれをいまひとつ出し切れなかった。今回の電子版で見る方がきれいだと思います。
・写真というメディアの場合は「フィルムで撮って印画紙に焼いて1枚1枚見る」が、「デジタルで撮ってディスプレイで見る」に変わった。
・『ティミッドとティンブクツーのあいだ』という小説があります。「ティミッド」は臆病という意味ですね。「ティンブクツー」はアフリカのマリの、サハラ砂漠の真ん中の地名。「ティミッドとティンブクツーのあいだ」とは何なのかというと、百科事典でいく「Time」という単語のことなんです。
・エッセイなどで「ぼくは……」と書いても、その「ぼく」はいわば仮想のものだった。一つの話題を提供するための台としての「ぼく」。
・金の場合、原石1トンにつき0.5グラムが採算分岐点だそうだ。同じように本も大量に刊行されるものの中から、最小限の手間で必要な本を選び出さなければならない。
・書評は本を選ぶアンテナとして役に立つ。年間に8万点出る新刊を、数百点まで圧縮してくれるわけだから。
・誰か厳密に計らなければ世の中は聖者だけになってしまう。
・名詞の複数形とみれば「諸」をつける愚劣さ。それで英文を読んだと錯覚する鈍感さ。マルクス関係の本の翻訳に出てくる「諸価値」を「価値観」と、あるいは価値体系と訳してごらんよ。諭旨がどんなに大きく変わり、筋が通ることか。
・新刊書店には、古い本でいいものはほとんど置いていない。この傾向は年々強くなっている。
・古本屋は、店舗がなくても成り立つ商売になった。客に店まで来てもらう必要はもうない。古本を仕入れて分類して、値をつけて、インターネット上のマーケット「日本の古本」に出しておけば、日本中から注文が来る。
・読書にカリキュラムはないし卒業もない。永遠の留年状態。
・イギリス人は非常に伝記が好きなのだ。イギリスの書店に行くと、「F」(フィクション)と並んでバイオグラフィーの「B」という分類の棚がある。そのくらい好き。
・いいエッセーの条件の一つは適量の生活感が入っていること。適量という点は大事で、多すぎるとおばさんやおじさんの投稿になってしまう(「……と思う今日このごろである」とか、「……と思うのは私一人ではないだろう」のたぐい)。
・いきいきとした日常生活のエピソードから出発して、2、3回論理の宙返りを経た上で説得力のある結論に至る。これが優れたエッセーの基本形です。
・ぼくは本は私的な所有物であると同時に公共財であるという意識から逃れられない。だから、ぼくはどんな本でもいずれ手放すと意識をして扱う。
・買ったら買いっぱなし、読んだら読みっぱなしでは書棚は更新されない。
・最初から数を限るなら、それは本ではなくて工芸品でしょう。
・昔、教養とは知識のストックであった。頭の中に過去の偉人たちの言葉がたくさん入っていれば、それだけ人格がみがかれ、いざという時にも知識は身を助けると人は信じていた。
・農業を始めて、穀物という備蓄可能な食糧を得た。備蓄可能はすなわち強奪可能だから戦争というものが始まった。
・我々の生産は技術によって支えられている。だから技術、つまりテクノロジーが変わったら、生産方法も変わらなければならない。
・最もアイディアが湧くのは、実は書いているときだ。書くというのはすなわち考えること。
・『ニューズウィーク』の日本版サイトをときどき見る。ここは、アメリカ的偏見はあるかもしれないが、日本の週刊誌的偏見はないから。
・コンピュータが使われ始めたとき、「ペーパーレス」という表現が流行った。結果的には、これは間違いだった。プリントしやすくなり、むしろ使用量は増えた。
・「税」について、「納税者とは、国家公務員試験を経ないで連邦政府のために働く人々である」。これはなんとレーガン元大統領のお言葉。
・印刷が可能になって、人々の手に1冊ずつでも渡るようになった。だからプロテスタントは信者が自分で聖書を読むようになったんです。カトリックの世界では、聖書は自分で読むものではなかったんです。
・グーテンベルクの発明によって「音読の世界」から「黙読の世界」になった。それまで神父さまの手元にのみあって、集団で大きな声で読むしかなかった本が、印刷されるようになると一人一人が自分の部屋で声を出さずに目で読まれるようになる。これは大きな変化でした。
・トーキーが盛んになったことで弁士たちが困り、一方では声があまりにひどいので生き残れなかった映画俳優たちもいた。
・素晴らしいクオリティの写真です。しかし、印刷ではそれをいまひとつ出し切れなかった。今回の電子版で見る方がきれいだと思います。
・写真というメディアの場合は「フィルムで撮って印画紙に焼いて1枚1枚見る」が、「デジタルで撮ってディスプレイで見る」に変わった。
・『ティミッドとティンブクツーのあいだ』という小説があります。「ティミッド」は臆病という意味ですね。「ティンブクツー」はアフリカのマリの、サハラ砂漠の真ん中の地名。「ティミッドとティンブクツーのあいだ」とは何なのかというと、百科事典でいく「Time」という単語のことなんです。
・エッセイなどで「ぼくは……」と書いても、その「ぼく」はいわば仮想のものだった。一つの話題を提供するための台としての「ぼく」。
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