『ビブリオパイカ 斎藤環書評集1997-2014』 [☆☆]
・おそらく「何のために生きるか」という設問自体が、偽の問題なのだ。その疑問、その分析そのものが、人を自殺へと動機づける。
・強迫傾向の強い人は、極端な潔癖症の側面を持つ一方で、信じがたいほど不潔な行為を平然と為すことがある。
・所詮バーチャルな苦労は人を成長させない。
・一般に感受性の豊かさとは、最も微妙で弱い刺激を感知する能力である。しかし、こうした過敏さはむしろ、中程度の刺激に対する鈍感さにつながるものだ。過敏な分裂気質者が、対人関係においては驚くほど鈍感であるのがその良い例である。
・狩猟採集民の社会においては、微妙な兆しや変化に敏感な分裂病親和者が、農耕社会においては貯蔵、整頓、支配を重んずる強迫症親和者が、近代社会においては秩序と立て直しの技術に優れたうつ病親和者が「主役」となった。
・一般に新書の機能とは、学問の体系を教養として消化させるところに重点がある。
・テレビに関する「感想文」はいくらでもある。しかし、それを批評にまで高めたのは、ナンシー関のほとんど独占的な功績だった。
・資本主義に感染した場所には、構造的必然として貧富の差が生まれ、格差は必然的に増幅される。このとき貧困層の悲惨さを救済するのが、貧しき者の死後の栄光を保証するキリスト教だ。このセット販売は実にうまくできている。
・もう一つのグローバリズムがある。それは貧困のグローバリズムであり、それは端的に「われわれと共に苦しめ」というグローバリズムである。
・忘却と知的怠惰に過ぎない薄っぺらな幸福。
・サバルタンとは、貧困層や女性、黒人などのような、下位で屈辱的な立場の人間を広く指す言葉。
・カウンセリングは現実に存在する問題から目をそらさせ、すべてを個人の内面的問題にすり替えてしまう手段なのだ。
・思想や著述は永遠の「副業」であるべきだ。文筆専業は真の天才を除いては人を堕落させる。
・開館直後から、噂が噂を呼び、全国から若者たちが押し寄せた。山田かまち現象のはじまりである。そう、ある精神科医がいみじくも指摘した通り、天才とは一種の「集団現象」なのだ。
・金星人は、具体的対象に惑溺しがちな博物学的知性、火星人は、明晰かつ抽象的な対象のみを思考する数学的知性を指す。
・「死ねばいい」と誰かに思われながら生き延びることが、「そう思われても仕方のない人間」を生み出してしまうということ。
・恐怖の形とは、本当は自分自身のはずなのに、まるで自分自身ではないようにみえる形のことだ。そう、恐怖はいつも、人の形をしている。それに比べれば、お化けや妖怪は、実はそれほど怖くない。
・「知」や「情」から生まれる「目的」によって汚染された人間存在は、それが理解可能であるがゆえにさほど恐ろしいものではない。凶悪犯罪に接した時、われわれが何を措いても「犯人の動機」を知りたがるのは、動機がわかれば恐怖がいくぶんかは薄れること知っているからだ。
・絶望と希望が等価であるということ。生き続ける限りにおいて、絶望は希望の索引であり、希望は絶望の兆候だ。その際限ないフーガを超えることなど、誰にもできはしない。
・漫画的手法とは、セリフによって時間を駆動させる表現形式のことである。フキダシひとつが一漫画時間、といった具合に進む世界。
・地獄じゃなくて、更地を作るんだよ。
・自分が「キミ」に対して親切という暴力を振るっている可能性にすら自覚的だ。
・実験に失敗はない。どんな結果も有益な情報である。
・アスペルガー障害の人たちは、私たちにとって自明と思われる認識や行動が不得手だ。たとえば、自分の空腹感や気温の高低や、疲労感をうまく感じたり、適切に対処したりすることができないのだ。
・他者の他者を想像すること。それが「狼」を「人間」に変える、ほぼ唯一の方法だ。
・大人がしっかり問題設定しつつ言語化しなければ子供は学習できない。
・現代においては悪意や愚かさ以上に「思慮の欠如 thoughtlessness」こそが災禍の原因だ。
・彼の饒舌は「グーグル」のように正確で空疎だ。
・「コラテラル・ダメージ」とは、もともとは軍事用語だ。特定の軍事行動がもたらす、予期せぬ巻き添え被害を意味する。
・殴り合いが起こらないのは、常に一発で相手が斃れるからだ。われわれは旧来の映画やドラマにおいて、相互性のある暴力、いわば「親切すぎる暴力」に慣らされてきた。だからこそ、徹底して一方的な北野映画の暴力描写は、見たこともないほど斬新だったのだ。
・母による娘の教育は、そのほとんどが身だしなみや所作といった身体的訓練であり、規範的なものはありうるとしても男子に対するそれに準ずる。つまるところ多くの娘は、母から「貴方自身の欲望を放棄し、欲望される身体を獲得しなさい」という訓練を受けて育つのだ。
・医療業界では「命の価格」は高騰している。たとえば「訴訟リスク」という形で。
・わかり合えない他者を前提とした「対話」よりも、気心の知れた者同士の「会話」ばかりを大切にしていないか。
・空気を読み合う「協調性」よりも、他者と交渉するための「社交性」の大切さを強調する。
・「雑談力」とは何だろうか。それは、「無意味な会話をいつまでも続けられる能力」のことだ。
・弓の名人に弓が不要であるように(「不射之射」)、雑談名人は話題すら必要としない。
・雑談が伝達するのは、情報ではなく情緒なのである。相手の情緒をうまくキャッチし、肯定的な情緒とともに返球すること。
・カルトによって救われるのは、騙されやすく内省もしない「鈍感な健常者」ばかりである。
・うどんのだし汁を絶賛する彼の描写は、「もぎたての豆のように甘く」だ。新しい語彙は私たちの味覚を豊かにしてくれる。
・「行為が意図に先立つ」ことを証明してみせた1980年代のベンジャミン・リベット。
・よく言われるようにオタクは「敵に回すと恐ろしいが味方にすると頼りない」存在です。
・強迫傾向の強い人は、極端な潔癖症の側面を持つ一方で、信じがたいほど不潔な行為を平然と為すことがある。
・所詮バーチャルな苦労は人を成長させない。
・一般に感受性の豊かさとは、最も微妙で弱い刺激を感知する能力である。しかし、こうした過敏さはむしろ、中程度の刺激に対する鈍感さにつながるものだ。過敏な分裂気質者が、対人関係においては驚くほど鈍感であるのがその良い例である。
・狩猟採集民の社会においては、微妙な兆しや変化に敏感な分裂病親和者が、農耕社会においては貯蔵、整頓、支配を重んずる強迫症親和者が、近代社会においては秩序と立て直しの技術に優れたうつ病親和者が「主役」となった。
・一般に新書の機能とは、学問の体系を教養として消化させるところに重点がある。
・テレビに関する「感想文」はいくらでもある。しかし、それを批評にまで高めたのは、ナンシー関のほとんど独占的な功績だった。
・資本主義に感染した場所には、構造的必然として貧富の差が生まれ、格差は必然的に増幅される。このとき貧困層の悲惨さを救済するのが、貧しき者の死後の栄光を保証するキリスト教だ。このセット販売は実にうまくできている。
・もう一つのグローバリズムがある。それは貧困のグローバリズムであり、それは端的に「われわれと共に苦しめ」というグローバリズムである。
・忘却と知的怠惰に過ぎない薄っぺらな幸福。
・サバルタンとは、貧困層や女性、黒人などのような、下位で屈辱的な立場の人間を広く指す言葉。
・カウンセリングは現実に存在する問題から目をそらさせ、すべてを個人の内面的問題にすり替えてしまう手段なのだ。
・思想や著述は永遠の「副業」であるべきだ。文筆専業は真の天才を除いては人を堕落させる。
・開館直後から、噂が噂を呼び、全国から若者たちが押し寄せた。山田かまち現象のはじまりである。そう、ある精神科医がいみじくも指摘した通り、天才とは一種の「集団現象」なのだ。
・金星人は、具体的対象に惑溺しがちな博物学的知性、火星人は、明晰かつ抽象的な対象のみを思考する数学的知性を指す。
・「死ねばいい」と誰かに思われながら生き延びることが、「そう思われても仕方のない人間」を生み出してしまうということ。
・恐怖の形とは、本当は自分自身のはずなのに、まるで自分自身ではないようにみえる形のことだ。そう、恐怖はいつも、人の形をしている。それに比べれば、お化けや妖怪は、実はそれほど怖くない。
・「知」や「情」から生まれる「目的」によって汚染された人間存在は、それが理解可能であるがゆえにさほど恐ろしいものではない。凶悪犯罪に接した時、われわれが何を措いても「犯人の動機」を知りたがるのは、動機がわかれば恐怖がいくぶんかは薄れること知っているからだ。
・絶望と希望が等価であるということ。生き続ける限りにおいて、絶望は希望の索引であり、希望は絶望の兆候だ。その際限ないフーガを超えることなど、誰にもできはしない。
・漫画的手法とは、セリフによって時間を駆動させる表現形式のことである。フキダシひとつが一漫画時間、といった具合に進む世界。
・地獄じゃなくて、更地を作るんだよ。
・自分が「キミ」に対して親切という暴力を振るっている可能性にすら自覚的だ。
・実験に失敗はない。どんな結果も有益な情報である。
・アスペルガー障害の人たちは、私たちにとって自明と思われる認識や行動が不得手だ。たとえば、自分の空腹感や気温の高低や、疲労感をうまく感じたり、適切に対処したりすることができないのだ。
・他者の他者を想像すること。それが「狼」を「人間」に変える、ほぼ唯一の方法だ。
・大人がしっかり問題設定しつつ言語化しなければ子供は学習できない。
・現代においては悪意や愚かさ以上に「思慮の欠如 thoughtlessness」こそが災禍の原因だ。
・彼の饒舌は「グーグル」のように正確で空疎だ。
・「コラテラル・ダメージ」とは、もともとは軍事用語だ。特定の軍事行動がもたらす、予期せぬ巻き添え被害を意味する。
・殴り合いが起こらないのは、常に一発で相手が斃れるからだ。われわれは旧来の映画やドラマにおいて、相互性のある暴力、いわば「親切すぎる暴力」に慣らされてきた。だからこそ、徹底して一方的な北野映画の暴力描写は、見たこともないほど斬新だったのだ。
・母による娘の教育は、そのほとんどが身だしなみや所作といった身体的訓練であり、規範的なものはありうるとしても男子に対するそれに準ずる。つまるところ多くの娘は、母から「貴方自身の欲望を放棄し、欲望される身体を獲得しなさい」という訓練を受けて育つのだ。
・医療業界では「命の価格」は高騰している。たとえば「訴訟リスク」という形で。
・わかり合えない他者を前提とした「対話」よりも、気心の知れた者同士の「会話」ばかりを大切にしていないか。
・空気を読み合う「協調性」よりも、他者と交渉するための「社交性」の大切さを強調する。
・「雑談力」とは何だろうか。それは、「無意味な会話をいつまでも続けられる能力」のことだ。
・弓の名人に弓が不要であるように(「不射之射」)、雑談名人は話題すら必要としない。
・雑談が伝達するのは、情報ではなく情緒なのである。相手の情緒をうまくキャッチし、肯定的な情緒とともに返球すること。
・カルトによって救われるのは、騙されやすく内省もしない「鈍感な健常者」ばかりである。
・うどんのだし汁を絶賛する彼の描写は、「もぎたての豆のように甘く」だ。新しい語彙は私たちの味覚を豊かにしてくれる。
・「行為が意図に先立つ」ことを証明してみせた1980年代のベンジャミン・リベット。
・よく言われるようにオタクは「敵に回すと恐ろしいが味方にすると頼りない」存在です。
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