『ネンドノカンド 脱力デザイン論』 [☆☆]
・「お題」である対象物をどう「デフォルメ」するか。特徴的な部分はこれでもか、と「強調」して、それ以外の部分は徹底的に「省略」する。
・鼻が大きい人は画面いっぱいに鼻を大きくして、目や口などは無くてもいいかもしれません。そうすることで、「伝わる」顔になるんです。つまり、顔写真よりも優れた情報に変化するんです。
・昨日「白」と決めたことを今日「黒」と断言できる、そんな決断力や柔軟性がないと成り立たない部分があります。
・アートは人に苦痛を与えてもいいけど、デザインは必ず喜びを与えないといけない。
・ぼーっと物事を見ていると「見間違え」をすることがあります。この「見間違え」こそがデザインの素になっちゃったりするのです。
・「なんだ。これ、無くてよかったんだ」という既成概念のリセットもまたデザインの醍醐味のひとつなのです。
・プロダクトをデザインする時には経年変化が「味」となる素材と「ただの汚れ」となる素材の使い分けを考慮しないとゴミを量産しかねません。
・頼れるのは、自分の「目」だけなんです。この部分だけは、絶対的な自信がなければ、たぶんデザイナーとしてメシは食っていけません。
・モノサシが2つないと意味がないと思っています。2つというのは、「好きなデザイン」と「正しいデザイン」。2つを明確に切り離して、「好きじゃないけど、いいデザインだと思う」とか「好きだけど、デザインとして適切ではない」といった評価ができるようになる。
・「いいデザイン」というより「これに1票入れているオイラってちょっとデキる風に見えるんとちゃう?なデザイン」が受賞するのです。
・これじゃ「独立」というより、ただの「孤立」ではないか。
・「カワイのカワは、えー、三途の川です」と。おいおい、それを言うなら「サンズイの「河」だろ、と。
・毎週のようにどこかの国に呼び出されて、疲労とマイルばかりが無駄に蓄積される日々です。
・パーソナルメディアの台頭によって、誰もが些細な「驚き」や「気づき」を発信し、共有する他者が増えていくことで情報が広がる「口コミ」の時代になりました。だから、身近な皮膚感覚こそ価値があり、大きな可能性があるのです。
・自分の足は異常に蒸れます。「男は群れるな」みたいなハードコアな言葉も自分には「蒸れるな」にしか聞こえません。
・ラフなシナリオはあっても、詳細な「筋書き」を書くことは極力避けなければなりません。イレギュラーな事態はたいがい発生するからです。
・「必ず何かが起きる」って気持ちでいられると、その「何か」が起きてもそれなりに対処できるものです。そして何も起きなければ「ラッキー」というだけのことです。
・社会で活躍している人はみな一定以上のレベルですから、「不測の事態の対応能力」に差が出るんだと思います。
・夜な夜な飲みに行っては「あの時倒されなければ点を決めてた」と言うんです。でもそれって「倒されながら点を決める」ためのトレーニングやイメージができていないだけの話なんですよね。
・残念ながらガッコウでは条件が整った課題を出して、「キレイな勝ち方」しか教えないから、まじめで成績が優秀な子ほど気の毒なことになっちゃうんです。まさかの「稽古場横綱」の量産態勢です。
・「楽しいこと」や「得意なこと」をどんどんやる方がクリエイティブな人間は成長するようです。
・「センス」などと一般的に呼ばれているものはトップデザイナーもちょっと気の利いた学生もそう大差が無いわけで、むしろプロジェクトを牽引していく「巻き込み力」にこそ大きな差があるのです。
・1日1回のミスを義務づけるくらいの感覚です。そして、日常化したミスによって余計な恐怖心が軽減され、のびのびと仕事をすることによるプラス作用に期待する、というものです。
・並大抵の努力では相手にもされないのです。ヨーロッパのメーカーからしてみれば、地元のデザイナーと同等の実力では地球の反対側にいる人にわざわざ依頼する理由が無いのです。
・それはここまでの高度経済成長を支えてきた国内の大手企業による功績で、今はその貯金を使い果たそうとしているのが現実です。
・ドラえもんのポケットから出てくる「ひみつ道具」のデザイン的価値はスゴいんじゃないか、と今でも思うわけです。最も重要なこととして、問題を必ず「解決する」プロダクトであることです。
・ひとつのプロダクトの登場によって世の中や人間関係が変わる、つまり、モノからコトが生まれているのです。
・ドラえもんの世界はSFです。でも、藤子・F・不二雄氏にとっては「サイエンス・フィクション」じゃなくて「すこしふしぎ」なんだそうです。
・海外のデザイナーたちのように「すごくふしぎ」じゃなくていいんです。そんな「すこしふしご」なデザインをこれからも志したい。
・ルールを変える腕力を持ち合わせていないのであれば、そのルールに一日でも早く適応する術を見つけないといけないのです。
・鼻が大きい人は画面いっぱいに鼻を大きくして、目や口などは無くてもいいかもしれません。そうすることで、「伝わる」顔になるんです。つまり、顔写真よりも優れた情報に変化するんです。
・昨日「白」と決めたことを今日「黒」と断言できる、そんな決断力や柔軟性がないと成り立たない部分があります。
・アートは人に苦痛を与えてもいいけど、デザインは必ず喜びを与えないといけない。
・ぼーっと物事を見ていると「見間違え」をすることがあります。この「見間違え」こそがデザインの素になっちゃったりするのです。
・「なんだ。これ、無くてよかったんだ」という既成概念のリセットもまたデザインの醍醐味のひとつなのです。
・プロダクトをデザインする時には経年変化が「味」となる素材と「ただの汚れ」となる素材の使い分けを考慮しないとゴミを量産しかねません。
・頼れるのは、自分の「目」だけなんです。この部分だけは、絶対的な自信がなければ、たぶんデザイナーとしてメシは食っていけません。
・モノサシが2つないと意味がないと思っています。2つというのは、「好きなデザイン」と「正しいデザイン」。2つを明確に切り離して、「好きじゃないけど、いいデザインだと思う」とか「好きだけど、デザインとして適切ではない」といった評価ができるようになる。
・「いいデザイン」というより「これに1票入れているオイラってちょっとデキる風に見えるんとちゃう?なデザイン」が受賞するのです。
・これじゃ「独立」というより、ただの「孤立」ではないか。
・「カワイのカワは、えー、三途の川です」と。おいおい、それを言うなら「サンズイの「河」だろ、と。
・毎週のようにどこかの国に呼び出されて、疲労とマイルばかりが無駄に蓄積される日々です。
・パーソナルメディアの台頭によって、誰もが些細な「驚き」や「気づき」を発信し、共有する他者が増えていくことで情報が広がる「口コミ」の時代になりました。だから、身近な皮膚感覚こそ価値があり、大きな可能性があるのです。
・自分の足は異常に蒸れます。「男は群れるな」みたいなハードコアな言葉も自分には「蒸れるな」にしか聞こえません。
・ラフなシナリオはあっても、詳細な「筋書き」を書くことは極力避けなければなりません。イレギュラーな事態はたいがい発生するからです。
・「必ず何かが起きる」って気持ちでいられると、その「何か」が起きてもそれなりに対処できるものです。そして何も起きなければ「ラッキー」というだけのことです。
・社会で活躍している人はみな一定以上のレベルですから、「不測の事態の対応能力」に差が出るんだと思います。
・夜な夜な飲みに行っては「あの時倒されなければ点を決めてた」と言うんです。でもそれって「倒されながら点を決める」ためのトレーニングやイメージができていないだけの話なんですよね。
・残念ながらガッコウでは条件が整った課題を出して、「キレイな勝ち方」しか教えないから、まじめで成績が優秀な子ほど気の毒なことになっちゃうんです。まさかの「稽古場横綱」の量産態勢です。
・「楽しいこと」や「得意なこと」をどんどんやる方がクリエイティブな人間は成長するようです。
・「センス」などと一般的に呼ばれているものはトップデザイナーもちょっと気の利いた学生もそう大差が無いわけで、むしろプロジェクトを牽引していく「巻き込み力」にこそ大きな差があるのです。
・1日1回のミスを義務づけるくらいの感覚です。そして、日常化したミスによって余計な恐怖心が軽減され、のびのびと仕事をすることによるプラス作用に期待する、というものです。
・並大抵の努力では相手にもされないのです。ヨーロッパのメーカーからしてみれば、地元のデザイナーと同等の実力では地球の反対側にいる人にわざわざ依頼する理由が無いのです。
・それはここまでの高度経済成長を支えてきた国内の大手企業による功績で、今はその貯金を使い果たそうとしているのが現実です。
・ドラえもんのポケットから出てくる「ひみつ道具」のデザイン的価値はスゴいんじゃないか、と今でも思うわけです。最も重要なこととして、問題を必ず「解決する」プロダクトであることです。
・ひとつのプロダクトの登場によって世の中や人間関係が変わる、つまり、モノからコトが生まれているのです。
・ドラえもんの世界はSFです。でも、藤子・F・不二雄氏にとっては「サイエンス・フィクション」じゃなくて「すこしふしぎ」なんだそうです。
・海外のデザイナーたちのように「すごくふしぎ」じゃなくていいんです。そんな「すこしふしご」なデザインをこれからも志したい。
・ルールを変える腕力を持ち合わせていないのであれば、そのルールに一日でも早く適応する術を見つけないといけないのです。
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