『料理は女の義務ですか』 [☆☆]
・料理は、作る人がどの程度料理が好きか、経験があるかで、「大変さ」のレベルが変わる。
・褒め言葉は全然足りないのに、文句が具体的すぎる。せっかく作ったのに文句を言われるのが、本当にイラっとする。
・人間を他の動物と区別しているのは、料理したものを食べることである。
・日本を代表する漬物の一つに白菜漬けがあるが、これは百年程度の比較的新しい歴史しか持たない。なぜなら、白菜は明治時代の日清・日露の二つの戦争で戦場になった中国から、農村出身の兵士たちが持ち帰った種から育てた白菜を原料にしているためで、江戸時代の日本には白菜漬けはなかった。
・コメぬかを大量に使用し独自の香りを持ったたくあんやぬか漬けは、日本がコメを主食にする文化だから生まれた食べ物である。
・藁づとを使う日本独自の納豆のつくり方も、米食文化圏ならではの発想である。
・コメや小麦などの穀物も保存食品である。
・結婚生活は最初が肝心。何でもやってくれると思わせないこと。
・あの頃の私は、料理が下手なくせに、仕事より格下の「雑用」とみなし、向上心も台所も預かる自覚もなかった。
・禅宗では、食を楽しみとしたイスラム教と異なり、料理することや飲食を修行の一環として捉える。手間と時間のかかる料理は、修行だからこそできるもので、日々時間に追われる庶民の食とは程遠い。しかし、集中して無心になれる料理は、坐禅より容易な修行法だったかもしれない。
・第二次世界大戦中、ナチスドイツが国民食として提唱したのは、一つの鍋でジャガイモやタマネギなどの国産野菜にブイヨン、ハーブなどを加えて煮るアイントプフというスープだった。ナチスは月に一回国民全員で食べる「アイントプフの日曜日」という制度を作る。
・店が出汁にこだわるのは、他店との差別化のためだが、何よりも毎日何時間も出汁をとれない家庭との違いがはっきりするからである。
・今や世界に広がったラーメンは、その昔の田舎で食べられてきた。穀物・豆類のスープや煮込みうどんの現代版なのである。
・同じ県内でも、旧藩が違えば文化が異なることが多い。
・かまどではつきっきりで作業しなければならない。不便な台所で、多様な新しい料理のレパートリーは生まれようがなかった。
・暮らしに関わる既製品が普及し、生活に必要不可欠だった手作りが趣味化する。型紙ではなく店情報を載せた女性ファッション誌は、1970年創刊の『an・an』からである。
・思考力まで低下する冬の日、沸かしたお湯にマーマレードを溶かして飲むと、芯から温まり元気が出る。
・日本の主婦は、一日の家事労働時間のうち70%までは台所の周囲にいる。しかもその動き方たるや、非能率きわまりない。が、そのような奥さんほど、コマネズミのようによく働く「主婦の鑑」とされていたのです。
・女性が企業で主戦力となれなかったことは、所得や待遇以外にも、さまざまな弊害を企業に生じさせている。例えば仕事の中身より時間を共有することを重んじる働き方である。
・自民党が考える女性の人生は「保障される側の「人生」ではなく、「個人=男性」に保障を与える側、そのために「家庭機能」に還元されてしまう人生」であるにすぎない。
・料理メディアが、和食特集を組むときはよく「おばあさん」を持ち出す。それは「お母さん」の味がすでに昭和飯で、煮物などではないからだ。
・台所の使い方をまったく知らない人がいるとすれば、それは生活体験の貧困による。保護者が料理する姿を見ないで育つなど、他人がうかがい知らない生い立ちの事情があるかもしれない。
・取り戻せない過去について呆れたり批判する前に、今目の前で料理を学ぼうとする相手に寄り添うことが必要なのではないだろうか。
・仕事を持ち続けていきたいというのであれば、少しでも良い方向に、楽な方向に持っていく方法論が、もっと論じられてしかるべきです。
・幼い子供が家事を手伝いたがるのは、生活に参加したいからだ。
・家事を取り上げられた高齢者の老化が加速するのは、役割を失うからだ。
・外注料理を利用する人が多いことは、情報化、グルメ化社会に振り回される人が増加していることや、料理技術の水準が低下していることも表わしている。
・レシピを利用するには、ある程度の技術とレシピを読み解く力を必要とする。
・オーブンの使用を基本とする欧米料理は、食材の持ち味をなるべく活かそうとするための下処理などの手間がかかる日本の基本的な家庭料理に比べ、手間はかからないが時間がかかる。
・何十年におよぶ巧みなマーケティング戦略が、私がスーパーで出会った、簡単なソースさえ作る技術が自分にはないと思い込む女性を作り上げた。
・自分で自分の味を選ぶようになったとき、その人は与えられた味に満足していた子供時代に別れを告げる。
・今までとは別の相手に料理するようになったとき、愛情を与える相手が変わったことに自ら気づく。
・いつの間にか家庭料理と日本料理店などの料理が混同されるようになり、品数を揃えることが当たり前とされるようになった。
・よく、農村の生活はその収入よりも豊かであるという。それは、食べ物を収穫して家に貯蔵してあるからだけでなく、隣近所で収穫物や料理を分け合うからである。
・褒め言葉は全然足りないのに、文句が具体的すぎる。せっかく作ったのに文句を言われるのが、本当にイラっとする。
・人間を他の動物と区別しているのは、料理したものを食べることである。
・日本を代表する漬物の一つに白菜漬けがあるが、これは百年程度の比較的新しい歴史しか持たない。なぜなら、白菜は明治時代の日清・日露の二つの戦争で戦場になった中国から、農村出身の兵士たちが持ち帰った種から育てた白菜を原料にしているためで、江戸時代の日本には白菜漬けはなかった。
・コメぬかを大量に使用し独自の香りを持ったたくあんやぬか漬けは、日本がコメを主食にする文化だから生まれた食べ物である。
・藁づとを使う日本独自の納豆のつくり方も、米食文化圏ならではの発想である。
・コメや小麦などの穀物も保存食品である。
・結婚生活は最初が肝心。何でもやってくれると思わせないこと。
・あの頃の私は、料理が下手なくせに、仕事より格下の「雑用」とみなし、向上心も台所も預かる自覚もなかった。
・禅宗では、食を楽しみとしたイスラム教と異なり、料理することや飲食を修行の一環として捉える。手間と時間のかかる料理は、修行だからこそできるもので、日々時間に追われる庶民の食とは程遠い。しかし、集中して無心になれる料理は、坐禅より容易な修行法だったかもしれない。
・第二次世界大戦中、ナチスドイツが国民食として提唱したのは、一つの鍋でジャガイモやタマネギなどの国産野菜にブイヨン、ハーブなどを加えて煮るアイントプフというスープだった。ナチスは月に一回国民全員で食べる「アイントプフの日曜日」という制度を作る。
・店が出汁にこだわるのは、他店との差別化のためだが、何よりも毎日何時間も出汁をとれない家庭との違いがはっきりするからである。
・今や世界に広がったラーメンは、その昔の田舎で食べられてきた。穀物・豆類のスープや煮込みうどんの現代版なのである。
・同じ県内でも、旧藩が違えば文化が異なることが多い。
・かまどではつきっきりで作業しなければならない。不便な台所で、多様な新しい料理のレパートリーは生まれようがなかった。
・暮らしに関わる既製品が普及し、生活に必要不可欠だった手作りが趣味化する。型紙ではなく店情報を載せた女性ファッション誌は、1970年創刊の『an・an』からである。
・思考力まで低下する冬の日、沸かしたお湯にマーマレードを溶かして飲むと、芯から温まり元気が出る。
・日本の主婦は、一日の家事労働時間のうち70%までは台所の周囲にいる。しかもその動き方たるや、非能率きわまりない。が、そのような奥さんほど、コマネズミのようによく働く「主婦の鑑」とされていたのです。
・女性が企業で主戦力となれなかったことは、所得や待遇以外にも、さまざまな弊害を企業に生じさせている。例えば仕事の中身より時間を共有することを重んじる働き方である。
・自民党が考える女性の人生は「保障される側の「人生」ではなく、「個人=男性」に保障を与える側、そのために「家庭機能」に還元されてしまう人生」であるにすぎない。
・料理メディアが、和食特集を組むときはよく「おばあさん」を持ち出す。それは「お母さん」の味がすでに昭和飯で、煮物などではないからだ。
・台所の使い方をまったく知らない人がいるとすれば、それは生活体験の貧困による。保護者が料理する姿を見ないで育つなど、他人がうかがい知らない生い立ちの事情があるかもしれない。
・取り戻せない過去について呆れたり批判する前に、今目の前で料理を学ぼうとする相手に寄り添うことが必要なのではないだろうか。
・仕事を持ち続けていきたいというのであれば、少しでも良い方向に、楽な方向に持っていく方法論が、もっと論じられてしかるべきです。
・幼い子供が家事を手伝いたがるのは、生活に参加したいからだ。
・家事を取り上げられた高齢者の老化が加速するのは、役割を失うからだ。
・外注料理を利用する人が多いことは、情報化、グルメ化社会に振り回される人が増加していることや、料理技術の水準が低下していることも表わしている。
・レシピを利用するには、ある程度の技術とレシピを読み解く力を必要とする。
・オーブンの使用を基本とする欧米料理は、食材の持ち味をなるべく活かそうとするための下処理などの手間がかかる日本の基本的な家庭料理に比べ、手間はかからないが時間がかかる。
・何十年におよぶ巧みなマーケティング戦略が、私がスーパーで出会った、簡単なソースさえ作る技術が自分にはないと思い込む女性を作り上げた。
・自分で自分の味を選ぶようになったとき、その人は与えられた味に満足していた子供時代に別れを告げる。
・今までとは別の相手に料理するようになったとき、愛情を与える相手が変わったことに自ら気づく。
・いつの間にか家庭料理と日本料理店などの料理が混同されるようになり、品数を揃えることが当たり前とされるようになった。
・よく、農村の生活はその収入よりも豊かであるという。それは、食べ物を収穫して家に貯蔵してあるからだけでなく、隣近所で収穫物や料理を分け合うからである。
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