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『身銭を切れ 「リスクを生きる」人だけが知っている人生の本質』 [☆☆]

・学問の世界では、学問の世界と実世界の違いはないが、実世界ではある。

・あなたが何か意見を述べ、誰かがその意見に従ったのなら、あなた自身もその結果に対してリスクを負う道義的な義務がある。

・システムは部分を排除することによって、つまり否定の道によって学ぶ。

・危険な悪質ドライバーの多くは、地元の墓地に埋葬されている。交通システムが少しずつ安全になっていくのは、人間ではなくシステムが失敗から学ぶからだ。

・何かを付け加えるよりも、何かを取り除く行動の方が頑健である。なぜなら、何かを付け加えると、目に見えない複雑なフィードバック・ループを生む可能性があるからだ。

・否定の道(何かを取り除く行為)の方が肯定の道(何かをつけ加える行為)よりも強力で、間違いが少ない。

・自分がされて嫌なことを他人にしてはならない。それが道徳の本質だ。

・大事なのは、議論に勝つことじゃない。勝つことだ。

・実践家は、説得ではなく実行することで勝つ。

・人間が口で「説明」することなんてものは、自分自身に言い聞かせている筋書きに過ぎず、まともな科学が扱う代物ではない。一方、人間の行動は、具体的で測定できるものなので、私たちが着目すべきなのは行動の方だ。

・(言葉による)予測は、(行動による)投機とは何の関連性もない。私は個人的に、予測の下手な金持ちと、予測の「得意」な貧乏人の両方を知っている。

・成果ではなくイメージで報酬を受け取る人は、とにかく高度なものを披露しなければならない。

・アシスタントがいるだけで、本能的なふるい分けが利かなくなる。アシスタントがいなければ、いやがおうでも、自分が正しいと思う物事しかしなくなるので、人生が少しずつそういう方向へと向かっていく。

・教授から学べるのは主として教授になる方法だし、ライフ・コーチや感動的な講演家から学べるのは主としてライフ・コーチや感動的な講演家になる方法なのだ。

・学習というものは反復や凸性に根差している。つまり、同じ文章を2回読むほうが、別々のふたつの文章を1回だけ読むよりも有利なのだ。

・商人が商品を盛んに勧めるのは、それを処分するためなのだ。

・よい垣根がよい隣人を作る。

・症状の軽い人は、症状の重い人よりもずっと多くいて、しかも長生きしてずっと薬を使い続けてくれる。だからこそ、製薬会社には症状の軽い人々に目をつける動機があるのだ(死んだ人は薬を使わない)。

・複雑系が複雑系たるゆえんは何かというと、全体の振る舞いをその構成要素からは予測できないという点だ。部分部分の性質よりも、部分同士の相互作用の方が重要なのだ。個々のアリを調べても、アリのコロニーの仕組みはまず理解できない。

・あらゆる非対称性の生みの親である「少数決定原理」だ。大きく身銭を切っている(できれば、魂を捧げている)ある種の非妥協的な少数派集団が、たとえば総人口の3、4パーセントかいう些細な割合に達しただけで、すべての人が彼らの選好に従わざるをえなくなる。

・英語が共通語になったすべての原因は、英語がネイティブでない人々でも(下手くそな)英語はしゃべれるが、その逆は成り立たない、という非対称的な法則にある。

・異教徒の方が頭脳明晰で、物事の微妙な動機や曖昧さを扱う能力が高い。プロテスタント派のキリスト教、サラフィー主義のイスラム教、原理主義的な無神論のような純然たる一神教には、曖昧さを扱えない直解主義者や凡人が多い。

・道徳は少数派によって作られる。本はどうして発禁になるのか? 断じて平均的な人を不快にさせるからではない。ほとんどの人は受け身で、あまり気にしないか、あえて発禁を求めるほどは気にしていない。

・社会における道徳的価値観は、民意の進化によって形成されるわけではない。むしろ、不寛容であるというただ一点の理由だけで、他の人々に道徳を押しつける最も不寛容な人によって形成されるのだ。同じことは公民権にも当てはまる。

・市場は小さな出口がひとつしかない巨大な映画館だと考えよ。そして、カモを見分ける最大のコツがある。出口ではなく映画館の大きさに目が行っているヤツは間違いなくカモだ。

・組織の上司による質的な「勤務評定」に生き残りを託している人々は、重要な決断では当てにならない。

・社会は聖人や道徳的な英雄たちに独身を求める。彼らが家族からのプレッシャーを受け、子供を養うために倫理観をねじ曲げるべきか否かというジレンマに陥らなくてすむように。

・大企業が家族を持つ人々を優遇するのは周知の事実だ。ダウンサイド・リスクを抱える人々、特に巨額の住宅ローンを抱える人々は、飼い慣らしやすい。

・パスカルの賭けとは、「神を信じて本当に神が存在すればペイオフはプラスだが、神が存在しなくても損はない、したがって、神の存在に賭けるのは一種の無料オプションである」という主張だ。

・メディアの連中は仲間同士でコミュニケーションを取るが、実世界の人間とはめったに接しないので、規範的な観念(「人間はこう考えるべきだ」)を人々に押しつける。

・経済学者たちは夢中になるあまり、ピケティがバルザックやジェーン・オースティンについて論じているという理由で彼を「博識」だと絶賛した。まるで、空港のターミナルでブリーフケースを運んでいる人を見かけて、ウェイト・リフターがいると大騒ぎするようなものだ。

・階級への妬みは、南アラバマのトラック運転手から始まるわけではない。むしろ、アイビー・リーグで教育を受け特権意識を持ち、自分より「頭の悪い」人間がずっとお金を持っていることに怒っているニューヨークやワシントンDCの知的バカ(ポール・クルーグマンやジョセフ・スティグリッツなど)から始まるのだ。

・本物の専門家とは誰か? 本物と偽物の専門家を決めるのは誰なのか? そのメタ専門家はどこにいるのか? その専門家とは「時」だ。

・他の人の評価は、それが現在ではなく未来の人々の評価である場合にのみ意味を持つ。

・自由人にとって必要なのは、議論に勝つことではなく、ただ勝つことである。

・銀行が損失を出すのは100四半期に1回足らずだが、その1回で今までの利益がすべて吹っ飛んでしまう。

・国家の(正規)教育の水準の高さは、国家の富の原因ではなく結果なのだ。

・数学や物理学では、(投稿のハードルがもっとも低い)論文保存サイトarXivに投稿された研究成果でも十分に価値がある。しかし、学問としての金融論のような質の低い分野では、論文の掲載された学術誌の「名前」だけが唯一の基準なのだ。

・暗殺教団に関して一番面白いのは、暗殺自体は彼らにとって優先順位が低かったという点だ。彼らは口先だけでない脅しの価値を理解していて、敵を殺すよりも生かしておいて支配する方を好んだ。唯一、操ることのできない敵がいるとすれば、それはもう死んでしまった敵なのだ。

・私はふとしたきっかけで、言葉の脅しに頼らずに非倫理的で口汚い人間の行動を変える方法を見つけた。ずばり、写真を撮るのだ。黙って写真を撮るという行為は、相手の命を手中に置き、未来の行動を操るのと似ている。写真を撮られた人々は、それをどう使われるかわからないので、不安な日々を送るはめになる。

・私生活と知的意見が矛盾した場合、その人の私生活ではなく知的意見の方が無効になる。

・あなたの個人的な行動が一般化できないなら、あなたは一般的な意見を持ちえない。

・善とは、みんなに優しくされている人に自分も優しくすることではない。つまり、本当の善とは、他の人々に見放されている人たちに優しくするということなのだ。

・友だちがいない人にときどき電話をかけたりするのもいい。

・みんなが袋叩きしているのを見て、同じことをしても大丈夫だろうとわかったところで初めて意見を表明し、おまけに善人面をする連中もいる。それは善ではなく悪だ。いじめと臆病を足し合わせたようなものなのだ。

・身銭を切っていない連中は、何もかも地政学というレンズを通して見る。無知な評論家たちにとっては、すべてがイラン対サウジアラビア、アメリカ対ロシア、火星対土星の問題に見えるらしい。

・協調性のある動物と比べると、捕食動物はものすごく少ない。もし「ジャングルの法則」なるものがあるとすれば、その大部分は「協調」を意味するだろう。

・最終的に市場と同じリターンを獲得できるためには、勝っているときにリスクを増やし、負けた後はリスクを減らすことが必要になる。これは「カジノ側の金で遊ぶ」と呼ばれる手法だ。

・システム全体が堅牢であるためには、システムを構成する要素に脆さが必要になる。人間が不死だったら、いずれ突発的な事故や不適応の蓄積によって絶滅するだろう。



身銭を切れ――「リスクを生きる」人だけが知っている人生の本質

身銭を切れ――「リスクを生きる」人だけが知っている人生の本質

  • 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
  • 発売日: 2019/12/12
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