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『勉強の哲学 来たるべきバカのために』 [☆☆]

・まず、勉強とは、獲得ではないと考えてください。勉強とは、喪失することです。これまでのやり方でバカなことができる自分を喪失する。

・無限の可能性(=自由)の中では、何もできない。行為には、有限性(=不自由)が必要である。

・有限性(=不自由)を引き受けながら、同時に、可能性(=自由)の余地をもっと広げる。

・私たちは環境依存的であり、環境には目的があり、環境の目的に向けて人々の行為が連動している。環境の目的が、人々を結びつけている=「共同化」している。

・環境における「こうするもんだ」とは、行為の「目的的・共同的な方向づけ」である。それを、環境の「コード」と呼ぶ。「周りに合わせて生きている」というのは、環境コードによって目的的に共同化されているという意味です。

・私たちは個性的な存在です。しかし、100%自分発の個性はない。個性とは、私たち一人ひとりが「どういう他者とどのように関わってきたか」の違いなのです。個性は、他者との出会いで構築される。

・いわば、言葉は人間のリモコンである。

・アイロニーは「根拠を疑う」こと。ユーモアは「見方を変える」ことである。

・決断は、単に偶然的なもの、たまたま出会ったもので、何に決めてもいい。比較検討を十分にやったかどうかは関係ありません。というか、決断する前の段階で比較して考えていたとしても、決断が起これば、考えていたことはすべてふいになります。

・たまたま、ある人の考え方に出会って、それ=他者に完全に乗っ取られる。決断とは、自分の決断の絶対化だが、それはつまり、他者への絶対服従である。

・信頼できる著者による紙の書物は、検索して上位にすぐ見つかるようなネットの情報よりも、信頼できる。

・入門書によって、勉強の範囲を「仮に有限化する」のです。専門分野に入る前提として、どのくらいのことを知っておけば「ざっと知っている」ことになるのか、という範囲を把握する。

・勉強を深めるには、多読というか、通読はしなくてもたくさんの書物を「知る」必要があります。頭の中にブックマップを作る。

・そもそも、これまでの自分にとって異質な世界観を得ようとしているのだから、実感に合わないことが書いてあって当然なのです。むしろ、「なんでそんなふうに考えるの?」と気味悪く、ときには不快に思うこともあるような考え方を学んでこそ、勉強なのです。

・これまでの自分に知識やスキルを足すのではなく、感じ方、考え方を、根本的に揺さぶる。慣れるとそれは、マッサージのように気持ちよくなってくる。

・教師や著者は、何らかの享楽的こだわりを背景として、「ある考え方」になっている。享楽のレベルで、教育に対する自分の合う、合わないがある。あなたに合う教師や著者は、あなた自身の享楽的こだわりに、何か共鳴するところがあるのでしょう。「労働問題にこだわる」教師や著者に、やはり「労働問題にこだわる」あなたが共鳴する。

・勉強するにあたって信頼すべき他者は、勉強を続けている他者である。

・どんな分野のものでも、SFやファンタジー小説を読むように読む。そういう小説の場合、架空の生物とか、アイテムとか、魔法とかが、その世界の「設定」の中でどういう機能を持つのかを把握しながら読むことになります。専門分野を学ぶことはそれに似て、ある設定、すなわち構造の中で、言葉=概念の機能を捉えることなのです。

・読書をしながらのメモや、とりあえずのアイデア出しは手書きにして、最終的にスマホのカメラで撮って、ノートアプリに転送する。

・普段から、書くことを思考のプロセスに組み込む。アイデアを出すために書く。アイデアができてから書くのではない。

・一見別々のことでも、実は「似たこと」として考えられる、という発想を持つ。



勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

  • 作者: 雅也, 千葉
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2017/04/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



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