『勉強の価値』 [☆☆]
・ただ覚える、覚えたことを思い出す、という能力だけでは、いずれ「役に立たない人間」と認識される結果になりかねない。
・大勢が同じことをするから、どうしても比較される。上手にできる子と、上手にできない子が、比較によって生じる。
・勉強というのは、知ることではなく、理解することなのだ。
・「学ぶ」というのは、知らないうちに自分の頭に入っていて、それによって自分が変化することでもある。
・「勉強をやらせるには楽しませるのが一番」という発想がかなり貧しい。人生には、辛いけれどやらなければならないことがあるし、また、楽しくてもやってはいけないことも数多い。
・研究とは、その謎を解決することである。つまり、世界でまだ誰も解決していない問題を解くことなのだ。したがって、文献を調べても、正解はどこにもない。
・既に存在する問題を解くことよりも、新たな問題を見つける、問題を作ることの方が重要なのである。研究者が考えるのは、そこだ。
・勉強が楽しく感じられる条件とは、つまり「知りたい」がさきにあって、そのために勉強する、この順番の問題なのである。
・ほとんどの大人は、大学までのどこかで勉強から落ちこぼれた人たちなので、子供にきちんと勉強の説明ができない。
・人の意見に反対するような場合、「あなたはこれを知らないのか?」といったもの言いをする人が多い。知らないことを馬鹿にしたような口調になる。「ええ、知りませんよ。それがどうかしたのですか?」などと言ったら、カッとなりそうだ。
・相手の知識不足が判明しても、それを攻撃するのではなく、丁寧に説明し、「知ったうえでも意見は同じですか?」と尋ねれば済む話である。
・自分は知っている、相手は知らない、だから自分の勝ちだ、という価値観は知性のない証拠であり、その点に関して明らかに劣っている。
・小さい子供のうちほど、練習(あるいは環境)が結果につながる。しかし、年齢が高くなるほど、先天的な才能に逆転される。
・目の前にあるケーキの取り合いをするのは子供であり、大人はケーキを譲ることの利を計算できる。賢い者と愚かな者の差も、突き詰めれば、この想定する未来のスパンの差にすぎない。
・簡単な三段論法や、逆、裏、対偶などの論理学は、議論の基本であるけれど、日本の場合、これらがまったく頭にない意見が九割以上まかり通っているようだ。
・学校の先生は、その分野で一流なのではない。むしろ二流か三流の能力しかない。一流の才能の持ち主は、小学校や中学校の先生にはならない。
・書道は、鉛筆でノートに書くだけの行為よりも、クリエイティブであり、また上手な文字、形の良い美しい文字を書こうとして、頭脳が活動する。
・きっと多くの人たちが、この誤解をしているだろう。それは、「学びたい」という気持ちを、「教えてもらいたい」と解釈してしまう間違いである。
・人から教えてもらおう、と考えることで、「学ぼう」という主体性の大半が失われてしまう。
・日本人の多くは、「知る」ことを「わかる」ことだと勘違いしているから、勉強でデータをインプットすれば、それで自分はわかった、理解した、と錯覚する。
・最終的には、試験をやめて、僕はこの質問で成績をつけることにした。どう答えるかではなく、何を問うかで、その人間の理解度を測ることができると気づいたからだ。
・答えることよりも問うことの方が、ずっと難しく、またその人間の能力が試されているのは確実だ。国会中継でも、「馬鹿な質問をしているな」と思うことが多いのでは?
・TVを見るのは、教室で先生の話を聴くのと、あまり変わらない。反応はしても、考えることがないからだ。
・ほとんどの老人が、「思い浮かべる」や「思い出す」、あるいは「覚える」くらいの行為を「考える」だと認識している。これらは、全然考えていない。
・自分と同じ趣味に他者を勧誘しようとする人は、本当の「楽しみ」を知らない人であり、大勢の仲間ができないと「楽しく」ならない、と考えている。
・「何をしようか」と選択するのも楽しいが、もっと楽しいのは「何ができるだろう?」という可能性をゼロから考えることである。
・つまらない内容の本も、どうしてこういった本が書かれることになったのか、これを読んで他者はどう感じるのか、ということを考える機会になる。
・勉強をしたがらない人を観察すると、「あいつは偉そうだ」「あいつは馬鹿だ」という感情的な反応しかしていない。「勉強」を妨げるものは、そういった動物的な感情による自身の感覚の遮断ではないか、と思われる。
・大勢が同じことをするから、どうしても比較される。上手にできる子と、上手にできない子が、比較によって生じる。
・勉強というのは、知ることではなく、理解することなのだ。
・「学ぶ」というのは、知らないうちに自分の頭に入っていて、それによって自分が変化することでもある。
・「勉強をやらせるには楽しませるのが一番」という発想がかなり貧しい。人生には、辛いけれどやらなければならないことがあるし、また、楽しくてもやってはいけないことも数多い。
・研究とは、その謎を解決することである。つまり、世界でまだ誰も解決していない問題を解くことなのだ。したがって、文献を調べても、正解はどこにもない。
・既に存在する問題を解くことよりも、新たな問題を見つける、問題を作ることの方が重要なのである。研究者が考えるのは、そこだ。
・勉強が楽しく感じられる条件とは、つまり「知りたい」がさきにあって、そのために勉強する、この順番の問題なのである。
・ほとんどの大人は、大学までのどこかで勉強から落ちこぼれた人たちなので、子供にきちんと勉強の説明ができない。
・人の意見に反対するような場合、「あなたはこれを知らないのか?」といったもの言いをする人が多い。知らないことを馬鹿にしたような口調になる。「ええ、知りませんよ。それがどうかしたのですか?」などと言ったら、カッとなりそうだ。
・相手の知識不足が判明しても、それを攻撃するのではなく、丁寧に説明し、「知ったうえでも意見は同じですか?」と尋ねれば済む話である。
・自分は知っている、相手は知らない、だから自分の勝ちだ、という価値観は知性のない証拠であり、その点に関して明らかに劣っている。
・小さい子供のうちほど、練習(あるいは環境)が結果につながる。しかし、年齢が高くなるほど、先天的な才能に逆転される。
・目の前にあるケーキの取り合いをするのは子供であり、大人はケーキを譲ることの利を計算できる。賢い者と愚かな者の差も、突き詰めれば、この想定する未来のスパンの差にすぎない。
・簡単な三段論法や、逆、裏、対偶などの論理学は、議論の基本であるけれど、日本の場合、これらがまったく頭にない意見が九割以上まかり通っているようだ。
・学校の先生は、その分野で一流なのではない。むしろ二流か三流の能力しかない。一流の才能の持ち主は、小学校や中学校の先生にはならない。
・書道は、鉛筆でノートに書くだけの行為よりも、クリエイティブであり、また上手な文字、形の良い美しい文字を書こうとして、頭脳が活動する。
・きっと多くの人たちが、この誤解をしているだろう。それは、「学びたい」という気持ちを、「教えてもらいたい」と解釈してしまう間違いである。
・人から教えてもらおう、と考えることで、「学ぼう」という主体性の大半が失われてしまう。
・日本人の多くは、「知る」ことを「わかる」ことだと勘違いしているから、勉強でデータをインプットすれば、それで自分はわかった、理解した、と錯覚する。
・最終的には、試験をやめて、僕はこの質問で成績をつけることにした。どう答えるかではなく、何を問うかで、その人間の理解度を測ることができると気づいたからだ。
・答えることよりも問うことの方が、ずっと難しく、またその人間の能力が試されているのは確実だ。国会中継でも、「馬鹿な質問をしているな」と思うことが多いのでは?
・TVを見るのは、教室で先生の話を聴くのと、あまり変わらない。反応はしても、考えることがないからだ。
・ほとんどの老人が、「思い浮かべる」や「思い出す」、あるいは「覚える」くらいの行為を「考える」だと認識している。これらは、全然考えていない。
・自分と同じ趣味に他者を勧誘しようとする人は、本当の「楽しみ」を知らない人であり、大勢の仲間ができないと「楽しく」ならない、と考えている。
・「何をしようか」と選択するのも楽しいが、もっと楽しいのは「何ができるだろう?」という可能性をゼロから考えることである。
・つまらない内容の本も、どうしてこういった本が書かれることになったのか、これを読んで他者はどう感じるのか、ということを考える機会になる。
・勉強をしたがらない人を観察すると、「あいつは偉そうだ」「あいつは馬鹿だ」という感情的な反応しかしていない。「勉強」を妨げるものは、そういった動物的な感情による自身の感覚の遮断ではないか、と思われる。
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