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『尊敬されない教師』 [☆☆]

・教師というのは「尊敬に値する」仕事というよりは、「尊敬を必要とする」仕事である。

・教師は「センセー、センセー」といわれると、自分自身が知的能力に優れた人格性、高潔な人物であると思いがちなのである。

・子供はあまり早く自立しない方がいい。学ぶということは自分が学ぶ者としてまだ「小さい存在」であるという自覚が必要だからである。

・個性の実現とか「自分探し」とか幸福の実現とか語られる教育のうるわしき目標は、その子がまずその社会に適応できるちからを身につけた上で追求されるべきものである。

・教師のミスは、ありもしない「理想的な教師」を基準として叩かれる。

・「教育は学校でやる」と思っている人は多いが、子供にとって親や大人の「していること」「言っていること」「要求すること」はすべて教育行為である。

・戦後すぐに小学校に入った世代が受けた教育には政治システムとしての「国」(ステート)と、文化共同体としての「邦」(カントリー)の両方が欠落していたと思う。

・好きなことしかできない人は近代人とはいえない。近代的人間は汎用性が高くなければならない。

・「自分はいつも正しい」と思い込んでいる。自己の利益、自己の感覚だけで生きる時代に入ったのである。

・野生の少女ヘレンが家庭教師サリヴァン先生の指導によって、野生児から文明人に成長していく過程は、ゆるやかに長い時間をかけて子供が近代的個人になっていくプロセスを非常に短い時間で強引に展開したものである。

・子供(ひと)が近代的(社会的)な個人になっていくためには、個体の思うとおりにならない厳然たる外部が構築されなければならない。子供の手が届かない、思う通りにならない外部が構築(意識)されれば、その対極として内部(内面)が確保されてくる。それが自我だといわれている。

・不合理で不自然であっても譲れない型(スタイル)があることが文化の本質である。文化とはそれに属していない個体には余分なものである。

・文化は子供に押しつけられるが、それを受け入れることができれば、個体は個人になり、さらに自己の生を豊かに創造していくことができる。

・近代が要求する人間であることは結構きつい。みんな働かなければならないこともそのひとつだ。

・「社会化」されることは、自分がいつも好きなように一人称(主語)で生きるのではなく、二人称としても三人称としても扱われることである(自分の思うようにはならない)。

・言葉は喋っていて、ちゃんとした日本語にもなっているのだが、生徒には何を喋っているかわからない教師がいる。自分がただ「思っていること」「いおうとしていること」を喋っているからである。喋っている相手(生徒)がその喋り相手、つまり二人称ではなく、「自分」に向かって喋っているのである。

・「議論」をしてお互いに自己変容することはなかった。

・事件はふつう事実から出発する。だが、いじめはデジタルな事実からは出発できない。被害者のアナログな被害感情から出発して、事実に「到達」するのでもない。被害感情から出発して事実を「構成」するしかないのである。

・組合をやめた教師の多くは、教育は国家のものと考え、管理職を目指していった。組合員たちは教育は国民(生徒)のものと考え、「行政のちから」に反対していた(たいした反対はしなかったが、何でも反対していた)。

・平等への志向と他人への嫉妬心が世間に強く流れ出したのである。「私ではない誰か」が得することは許せない。

・学校は教育の場ではなく福祉の場になってしまった。



尊敬されない教師 (ベスト新書)

尊敬されない教師 (ベスト新書)

  • 作者: 諏訪 哲二
  • 出版社/メーカー: ベストセラーズ
  • 発売日: 2016/01/09
  • メディア: 新書



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