『新版 お金の減らし方』
・特に最近では、ネットで持ちもの自慢をしたり、美味しいものを食べた、素晴らしい場所へ自分は行った、という証拠写真をアップして、周囲のみんなに見てもらう、という趣味が日本中で流行っているようである。
・おそらく、みんなが自分を見ている、自分は注目を集めている、というイメージで自己満足しているのだと思われるが、それだけの妄想ができるのなら、最初からすべて空想して満足すれば、お金も時間もかける必要がない。
・周囲とのコミュニケーションが必要以上に個人を拘束しているため、自分がしたいことではなく、みんながしたいことを自分もしたい、と思い込むようになっている。
・小さな目先の得に手を出してしまう人から、少し遅れて来る大きな利を得ることが、ビジネスというものだ。
・必要なものの多くは、実は絶対に必要というわけではない。なにしろ、それを買う今現在、それがなくても過ごせているからだ。
・自分の所有物にできないものは、お金で買うことができない。目的達成のために、お金は無力だ。
・一般の人には、十倍の値段の料理が十倍美味しいとは感じられない。せいぜい良いところ二倍だろう。しかし、グルメは、それを十倍美味しいと感じる能力がある人たちなのだ。
・ものの価値とは、それを製造するときの時間や労力やエネルギィで決まっているのではなく、その価値を評価する人と、それを買う人の価値を投影(あるいは想定)したもので決定されているという理屈になる。
・行列に並んで、競争するように買い求めるというのは、スポーツやイベントとしては面白いかもしれないが、冷静な価値判断ができているとは思えない。
・「ぴんと来るもの」に出会うまで、お金を持っていれば、いずれそれが現れたとき、躊躇なく決断ができる。ぴんと来ないものを買ってしまったら、そういったものがあとから現れたときに、後悔するかもしれない。
・それでもなぜ性懲りもなく新しいモノを買い続けるのかといえば、ただ違うものが欲しいから。
・おそらく、みんなが自分を見ている、自分は注目を集めている、というイメージで自己満足しているのだと思われるが、それだけの妄想ができるのなら、最初からすべて空想して満足すれば、お金も時間もかける必要がない。
・周囲とのコミュニケーションが必要以上に個人を拘束しているため、自分がしたいことではなく、みんながしたいことを自分もしたい、と思い込むようになっている。
・小さな目先の得に手を出してしまう人から、少し遅れて来る大きな利を得ることが、ビジネスというものだ。
・必要なものの多くは、実は絶対に必要というわけではない。なにしろ、それを買う今現在、それがなくても過ごせているからだ。
・自分の所有物にできないものは、お金で買うことができない。目的達成のために、お金は無力だ。
・一般の人には、十倍の値段の料理が十倍美味しいとは感じられない。せいぜい良いところ二倍だろう。しかし、グルメは、それを十倍美味しいと感じる能力がある人たちなのだ。
・ものの価値とは、それを製造するときの時間や労力やエネルギィで決まっているのではなく、その価値を評価する人と、それを買う人の価値を投影(あるいは想定)したもので決定されているという理屈になる。
・行列に並んで、競争するように買い求めるというのは、スポーツやイベントとしては面白いかもしれないが、冷静な価値判断ができているとは思えない。
・「ぴんと来るもの」に出会うまで、お金を持っていれば、いずれそれが現れたとき、躊躇なく決断ができる。ぴんと来ないものを買ってしまったら、そういったものがあとから現れたときに、後悔するかもしれない。
・それでもなぜ性懲りもなく新しいモノを買い続けるのかといえば、ただ違うものが欲しいから。
タグ:森博嗣
『マンガでわかる!認知症の人が見ている世界2』
・認知症の症状は、不安→不満→不信→不穏と悪化していきます。
・実は認知症の本質は記憶の障害ではなく、「わかること」と「知っていること」のミスマッチで起きるのです。
・どうしたら「わかること」を「知っていること」に結びつけられるか。そういう視点を持つと認知症の人との接し方が一段と上手になりますよ。
・アルツハイマー型認知症の人は、嗅覚をつかさどる脳の部位が初期から委縮するため、においに鈍感になり、自分の体臭を自覚しにくくなっていきます。
・認知症の人と接するときは、いかに不安を除き、安堵できる時間を増やして安心を引き出すかが大切です。安堵できる時間が増えれば安心が引き出され、安心が定着すると安着となり、最終的には安穏という状態になって認知機能の低下を防ぐことにつながります。
・認知症になると、初期のうちから「あれをしただろうか」と周囲の人に何度も同じことを聞くことがあります。これは「覚えていたい」「忘れたくない」「周囲に迷惑をかけたくない」という想いのあらわれです。
・スピーチロックは、言葉で心と体を拘束することだよ。
・拘束というと、体を物理的に拘束する「フィジカルロック(身体拘束)」のイメージが一般的ですが、ほかにも薬物を過剰に投与して動けないようにする「ドラッグロック」や、「言葉かけによって体と心を抑制する「スピーチロック」があります。
・幻臭とは、ありもしないにおいを訴える症状のこと。主にレビー小体型認知症の人によく見られます。
・実は認知症の本質は記憶の障害ではなく、「わかること」と「知っていること」のミスマッチで起きるのです。
・どうしたら「わかること」を「知っていること」に結びつけられるか。そういう視点を持つと認知症の人との接し方が一段と上手になりますよ。
・アルツハイマー型認知症の人は、嗅覚をつかさどる脳の部位が初期から委縮するため、においに鈍感になり、自分の体臭を自覚しにくくなっていきます。
・認知症の人と接するときは、いかに不安を除き、安堵できる時間を増やして安心を引き出すかが大切です。安堵できる時間が増えれば安心が引き出され、安心が定着すると安着となり、最終的には安穏という状態になって認知機能の低下を防ぐことにつながります。
・認知症になると、初期のうちから「あれをしただろうか」と周囲の人に何度も同じことを聞くことがあります。これは「覚えていたい」「忘れたくない」「周囲に迷惑をかけたくない」という想いのあらわれです。
・スピーチロックは、言葉で心と体を拘束することだよ。
・拘束というと、体を物理的に拘束する「フィジカルロック(身体拘束)」のイメージが一般的ですが、ほかにも薬物を過剰に投与して動けないようにする「ドラッグロック」や、「言葉かけによって体と心を抑制する「スピーチロック」があります。
・幻臭とは、ありもしないにおいを訴える症状のこと。主にレビー小体型認知症の人によく見られます。
マンガでわかる! 認知症の人が見ている世界2 (マンガでわかる!認知症の人が見ている世界)
- 出版社/メーカー: 文響社
- 発売日: 2022/09/08
- メディア: 単行本
2024-09-19 15:29
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『「前向きに生きる」ことに疲れたら読む本』
・仏教とは、生きるためのテクニックです。いや正確に言えば、死を目指して生きるためのテクニックです。
・そもそも、「昨日の自分」と「今日の自分」が同じだといえる根拠は、2つしかありません。それは、自分自身の「記憶」と「他人からの承認」だけです。
・人はこの世に「たまたま」生まれ、他人から「自分」にさせられたのです。その「自分」を受け入れるためには、人から認められ、ほめられなければなりません。自分ではなく人が選んだ服を着ているのですから、誰かから「似合うね」「いいね」と言われて初めて安心でき、その服を着る気になれます。
・人が直面する問題のほとんどが、人との「間」に存在します。「私の問題」とは、他人と一緒に織った織物のようなものなのです。
・問題を解決するには、他人との関係を組み替えることだと見極める必要があります。
・人生を「棒に振る」くらいの気持ちで生きれば、ちょうどいいのです。すると、ラクに生きられます。そして、ラクに死ぬことができます。
・職業を考えるときにもっとも大切なのは、「人の役に立ってお金をもらうこと」です。仕事は、自分の夢のためにあるわけではありません。
・「自分が大切にしたいもの」をはっきり決めれば、それ以外のものは、ただやり過ごせばいいだけです。そうすると、人生がシンプルになり、生きやすくなります。
・自分のためではなく、「人のため」と考える。やりたいことではなく、「やるべきこと」をする。そこを目指せば、「生きていてよかったな」と思える日々が重なっていくはずです。
・死に際して、「まあ、そこそこの人生だったかな」「いいことも悪いこともあったが、とりあえず生きたな」と思えれば十分だと、私は思います。
・人は、「他人の海」で生きなければならないのですから、ストレスや葛藤がないわけがありません。大事なのは、その波に巻き込まれたり、流されたりしないようにすることです。つまり、感情が「心」という器からこぼれさえしなければいいのです。
・喜怒哀楽がなければ、死んでいるのと同じですから。
・感情や思考の動きを沈静化させ、意識の方向を切り換えるためには、体のほうから感情をコントロールするテクニックが必要なのです。僧侶としては、まず座禅をおすすめします。
・クールダウンは、「気分転換」や「リフレッシュ」とは違います。考える前の助走のようなもの。いったん場をならして、次の試合のためのグラウンド整備をするようなものです。ですから、新たな刺激がなく、日常的にできることにかぎります。
・この技術は普段から準備していないと、イザというときに使えません。また、しばらくやらないと必ず錆びつきます。習慣として、日常の中に組み込んでおくといいでしょう。
・短気な上司がどんなに激昂しても、「この人は、怒れば問題が解決すると思っているのだな」と、指摘された問題だけ捉えて、余計な怒りは受け流せばいいのです。
・人は頭で変わろうと考えて、変われるものではありません。もし変わるとすれば、生活パターンや行動パターンが変わったときです。
・とにかく黙って聞いていろ。嵐は過ぎる。永遠の嵐はない。後は、ふだんから「ありがとう」と言っておけば大丈夫だ。
・死者は、生きている者の思いどおりにはなりません。どんなに考えまいと思っても心から去ってくれず、亡くなってから何十年経ってなお、生きている者の中に存在して影響を与え続けることがあります。
・「死体」がいつ「遺体」になるかと言えば、「○○さんの死体」と判明したとき。つまり、死体に人格を与えられたときです。
・遺体が消えた瞬間、立ち上がってくるのが「死者」です。
・誰もが死者になるわけではないということです。その人間にとって大切な人以外は、死者になり得ません。生きている間に、自分が何者であるかを教えてくれた人。つまり、自分が誰であるかを意味づけた人だけが「死者」になります。
・人はいつか死ぬと、もちろん誰もが知っています。しかし、切実にその事実が迫って来るのは、主語が「自分」になったときだけです。
・死を受容するためには、自分を開いておかなければなりません。「自分を開く」とは、どういうことか。要は、「もう自分を大切にしない」ことです。そして、損得勘定抜きで、「自分のため」ではなく「人のため」に動いていくことです。
・世間で「年をとる」ということは、つまりは「いなくても構わない人になっていく」ことです。
・そもそも、「昨日の自分」と「今日の自分」が同じだといえる根拠は、2つしかありません。それは、自分自身の「記憶」と「他人からの承認」だけです。
・人はこの世に「たまたま」生まれ、他人から「自分」にさせられたのです。その「自分」を受け入れるためには、人から認められ、ほめられなければなりません。自分ではなく人が選んだ服を着ているのですから、誰かから「似合うね」「いいね」と言われて初めて安心でき、その服を着る気になれます。
・人が直面する問題のほとんどが、人との「間」に存在します。「私の問題」とは、他人と一緒に織った織物のようなものなのです。
・問題を解決するには、他人との関係を組み替えることだと見極める必要があります。
・人生を「棒に振る」くらいの気持ちで生きれば、ちょうどいいのです。すると、ラクに生きられます。そして、ラクに死ぬことができます。
・職業を考えるときにもっとも大切なのは、「人の役に立ってお金をもらうこと」です。仕事は、自分の夢のためにあるわけではありません。
・「自分が大切にしたいもの」をはっきり決めれば、それ以外のものは、ただやり過ごせばいいだけです。そうすると、人生がシンプルになり、生きやすくなります。
・自分のためではなく、「人のため」と考える。やりたいことではなく、「やるべきこと」をする。そこを目指せば、「生きていてよかったな」と思える日々が重なっていくはずです。
・死に際して、「まあ、そこそこの人生だったかな」「いいことも悪いこともあったが、とりあえず生きたな」と思えれば十分だと、私は思います。
・人は、「他人の海」で生きなければならないのですから、ストレスや葛藤がないわけがありません。大事なのは、その波に巻き込まれたり、流されたりしないようにすることです。つまり、感情が「心」という器からこぼれさえしなければいいのです。
・喜怒哀楽がなければ、死んでいるのと同じですから。
・感情や思考の動きを沈静化させ、意識の方向を切り換えるためには、体のほうから感情をコントロールするテクニックが必要なのです。僧侶としては、まず座禅をおすすめします。
・クールダウンは、「気分転換」や「リフレッシュ」とは違います。考える前の助走のようなもの。いったん場をならして、次の試合のためのグラウンド整備をするようなものです。ですから、新たな刺激がなく、日常的にできることにかぎります。
・この技術は普段から準備していないと、イザというときに使えません。また、しばらくやらないと必ず錆びつきます。習慣として、日常の中に組み込んでおくといいでしょう。
・短気な上司がどんなに激昂しても、「この人は、怒れば問題が解決すると思っているのだな」と、指摘された問題だけ捉えて、余計な怒りは受け流せばいいのです。
・人は頭で変わろうと考えて、変われるものではありません。もし変わるとすれば、生活パターンや行動パターンが変わったときです。
・とにかく黙って聞いていろ。嵐は過ぎる。永遠の嵐はない。後は、ふだんから「ありがとう」と言っておけば大丈夫だ。
・死者は、生きている者の思いどおりにはなりません。どんなに考えまいと思っても心から去ってくれず、亡くなってから何十年経ってなお、生きている者の中に存在して影響を与え続けることがあります。
・「死体」がいつ「遺体」になるかと言えば、「○○さんの死体」と判明したとき。つまり、死体に人格を与えられたときです。
・遺体が消えた瞬間、立ち上がってくるのが「死者」です。
・誰もが死者になるわけではないということです。その人間にとって大切な人以外は、死者になり得ません。生きている間に、自分が何者であるかを教えてくれた人。つまり、自分が誰であるかを意味づけた人だけが「死者」になります。
・人はいつか死ぬと、もちろん誰もが知っています。しかし、切実にその事実が迫って来るのは、主語が「自分」になったときだけです。
・死を受容するためには、自分を開いておかなければなりません。「自分を開く」とは、どういうことか。要は、「もう自分を大切にしない」ことです。そして、損得勘定抜きで、「自分のため」ではなく「人のため」に動いていくことです。
・世間で「年をとる」ということは、つまりは「いなくても構わない人になっていく」ことです。
タグ:南直哉