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『読書力』 [☆]

・本を読んだというのは、まず「要約が言える」ということだ。「で、どういう内容だったの」と人に聞かれて、かいつまんで内容が話せるようであれば、他の人にも役に立つし、自分の読書力を向上させる目安になる。

・読書の幅が狭いと、一つのものを絶対視するようになる。

・教養があるということは、幅広い読書をし、総合的な判断を下すことができるということだ。

・教養という言葉は、ビルドゥングというドイツ語を元にしている。ドイツ語のビルドゥングには、自己形成というニュアンスが色濃く入っている。

・基本的な本を読んでいないことは恥ずかしいという意識が学生同士のテンションを高くしていた。現在の日本では、何かを知らないということは、恥にはならなくなってきている。

・人間の総合的な成長は、優れた人間との対話を通じて育まれる。身の回りに優れた人がいるとは限らない。しかし、本ならば、現在生きていない人でも、優れた人との話を聞くことができる。優れた人との出会いが、向上心を刺激し、人間性を高める。

・言葉の種類が少なければ、自然と思考は粗雑にならざるを得ない。考えるということを支えているのは、言葉の豊富さである。

・単行本を後ろにして文庫を前にするなどの工夫が必要だ。というのは、「探せばある」ということと、「自然に目に入ってくる」ということの間には大きな開きがあるからだ。

・本を読む力のない人が増えれば、濃い内容の硬い本が売れなくなる。すると、そのような本は品切れになるばかりか、そもそも出版させてもらえなくなる。

・自分の狭い世界に閉じこもって意固地になったり、自分の不幸に心をすべて奪われたりする、そうした狭さを打ち砕く強さを読書は持っている。

・一冊の絶対的な本を作ってしまうのならば、それは宗教だ。冷静な客観的要約力をもって、いろいろな主張の本を読むことによって、世界観は練られていく。

・よく本やマンガで知っているキャラクターがテレビのアニメになったときに、「声が違う」と感じることがある。これは想像上で自分の声をなんとなく作り上げて読んでいるということだ。実際の声優の声がイメージとずれていると感じる力は、イメージ化能力があることを示している。

・「子供に朗誦・暗誦をさせると、戦前のようだ」と言う人がいる。しかし、この論理では、戦前のようだなのではなく、明治時代のようだ、江戸時代のようだと遡っていくことになってしまう。

・きちんとすらすら読むためには、アイ・スパンを広げる必要がある。自分が読んでいるところの先にまで目を届かせる。この幅が広いほど、アイ・スパンは広いということになる。

・速読を身につけるプロセスでは、音読から黙読へ当然移行する。口を動かしているようでは、速く読むことはできない。しかし、上達のプロセスとしては、音読が先になる方が合理的だ。すらすら音読できるようになると、自然とアイ・スパンを広げる練習ができているので、目をどんどん先に送ることに慣れてくる。

・素読派は「型」の文化が身についており、身体的鍛練を伴う修養の文化の中に育っている。教養派は読書はするが、それが身体的行為ではなく、楽しいものを享受するにとどまっている。

・相手の言ったこととまったく無関係に「ていうか」という始まりで、まったく別の自分だけに関心のある話をしたならば、相手はうんざりしてきて人格さえも疑うようになる。脈絡のない話し方は、社会性がないと受け取られる。

・読書クイズというのは、たとえば、その本に書かれている具体的な言葉が答えになるようなクイズのことだ。主人公が一番好きだった歌は何という歌だったでしょうか、といったものだ。

・誰かに要求されているわけでもないのに、自分の生き方をある倫理的ともいえるスタイルに律している人がいる。そんな生き方は「スタイルがある」と感じられる。生き方の美学は一種の倫理でもある。



読書力 (岩波新書)

読書力 (岩波新書)

  • 作者: 斎藤 孝
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2002/09
  • メディア: 新書



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