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『キレる大人はなぜ増えた』 [☆☆]

・イライラだけなら、まだその人の心の中にとどまっている。しかし、それがさらに高じると、もはや心の中でおさめておくことができなくなり、不快な表情、舌打ちから、暴言、ついには暴力に至る。それが、「キレる」だ。

・「加害者の7割近くが酔っ払い」とあるように、暴力の背景に強くお酒が関与していることがうかがわれる。

・注意や忠告はわかり合うためにではなく、あくまで自分の怒りを伝えるため、謝罪を導き出すため、あるいはその相手を追い出すために行われる。

・アメリカの看護学実習の中にいは、自分の気持ちや考えをまっすぐに表現するコミュニケーション術、「アサーティブ・トレーニング」が組み込まれている。このアサーティブ・トレーニングは、もともとはアメリカの黒人差別に対抗する公民権運動から端を発し、次に女性運動にその場を移した「人権主張の方法」であったという。

・アサーティブネスがアメリカ発祥の考え方ではなく、たとえばインドとかナイジェリア伝来のコミュニケーション・スキルであれば、ビジネスマンたちがこれほどありがたがることもなかっただろう。「アメリカ=ビジネスの大国、勝ち組の国」という図式が私たちの頭の中にあるからこそ、「アサーティブネスで自己主張しなければ、世界に立ち遅れる」と思う人が後を絶たないのではないか。

・「おじけずに自己主張するのがエリートの証拠」と錯覚してまわりの状況も読まずに自分の意見を一方的に主張する。

・ある特定の疾患の研究を始めると、不思議とその疾患の人に出会うようになる。これは、その疾患の発見に敏感になり、無意識に「研究データを集めるためにもたくさん来てほしい」と思うと、すぐに「あ、またこの病気だ」と診断を下してしまうようになる、といういわゆる医原病の一種だ。

・歴史を振り返ってみても、独裁政治は人々の「あの人が支持しているから私も」という感情によって成り立っているのではなく、「他の人はともかく、この私だけは」と個別に奮い立つ人の集積ででき上がることが多いようだ。

・優雅で上品な生活を送っている彼女たちとしては、自分がキレて暴言を吐くような人間だということは認めたくない。そこで持ち出されるのが、「もうひとりの私」という人格の多重化であり、「言ったことを覚えていない」という記憶喪失なのだろう。

・いくら解離性障害でも、「自分の中にないものは出てこない」ということだ。登場する人格はあくまでその人自身の中にある情報から組み立てられたものである、というのが定説になっている。だから別人格は、「自分とは違う性別の人」「子供」「老人」などパターン化されているわけだ。

・彼女たちは、あくまで正しいのは自分、と信じており、だからこそ診察室でも恥じ入った風もなく、淡々と「またやっちゃいました」と自分がキレた体験を語ることができるのである。

・彼女たちはふたつの意味で「自分の権利」を信じて疑っていないことがわかる。ひとつは「妻である権利」、それからもうひとつは「最初に正しい立場にいた者は、その後、永遠に相手に対してどんなことでもしてもよいという権利」である。

・彼らがその「正義感」をふりかざし、行動に移す=「キレる」ことによって、結果として周囲にはとんでもない災厄がもたらされているのであった。

・住宅面での衒示的消費の象徴である六本木ヒルズを見てもうらやましいとは感じないが、近所の公務員宿舎には腹が立つというわけである。

・政治腐敗や無駄な公共事業に関する批判が国民に浸透し、田舎の土建屋や農家は政治的コネを使ってうまい汁を吸っているという不信が広がった。

・道徳をめぐるカスケードの場合、ウェブによって可視化され、つながることによって、本来「怒らなくてもよい人たち」が怒る、という現象が多々見受けられます。

・「道徳的であれ」というのはあくまで他人に対して求められているだけで、自分はあくまで道徳的でない人から被害を受けるか受けないか、という側にしか身を置かない。「他人のルール違反も問題だが、私自身はどうだろう」と我が身に置き換えて考えることはない。

・匿名となるとむしろ道徳的でない人ほど自分を棚にあげて「正義の人」になる。

・なぜキレる人の扁桃体は大脳皮質からの指令を無視して暴走してしまうのか。もしかすると、現代人の扁桃体は、大脳の支配下から離れ、「自由意思」を持って勝手に振舞おうとし始めているのではないか。

・シニア大学院生を募集している大学にしても、「向学心も10代レベルだが、人格の幼さも10代並み」というシニアを想定してはいないはずだが、これからは実際にそういう学生が大挙してキャンパスに押し寄せる可能性もある。

・最近は、小児科でも「待たずにすむ」と夜間の救急外来に子供を連れてくる親が後を絶たない。

・少しでも待たされるとキレる人たちも、「行列のできるラーメン店」などではその順番を何十分でも嬉々として待つ。

・いまや、書店でも映画館でも、ヒット作と言われるものの多くは「泣ける作品」か「爆笑間違いなしの作品」のいずれかだ。少なくとも「深く考えさせる作品」でないことは、確かだろう。

・世論調査で支持される政治家の支持の理由の一位は、いつも政策でなくて「人柄がよさそう」である。

・ストレスはすべて人間関係から生じ、別の人間関係で解消するしかない。キレるかどうかの境目は、グチを聞いてくれる人がいるかどうか。

・「暴走老人」たちが孤独感とともに心に秘めているのは、自己愛というより「かまってもらいたい」という子供じみた自己顕示欲だ。

・日本語では「権利」という言葉はひとつしかないが、本当は権利にはright(正当な要求)とprivilege(特権)の二種類がある。今の日本では、もっと主張されるべきrightは十分に主張されず、「私は当然、これくらいのことをしてもらってもいいはずだ」というprivilegeばかりが強調されている。この人たちは、自分が好きなことをすることで、犠牲になる人がいると想像することもできない。

・「子供の理科離れ」が教育の現場で深刻な問題になっているが、この背景にあるのも、「理屈より情動」という社会の雰囲気なのではないだろうか。

・「水に「ありがとう」と言葉をかければきれいな結晶ができる」といった非科学的な話が小学校の道徳の時間に堂々と語られていることなどを取り上げて、問題視しているのだが、それに対して反論を唱える人たちも多い。彼らの言い分は決して「水は言葉をわかっている」という類ではなく、次のようなものだ。「ありがとう、という言葉の意義を知るのはすばらしいことなのは間違いないのだし、水の話は子供にもとてもわかりやすく感動的だ。ここで、科学的かどうかなんて細かいことを言う必要はないじゃないか」。 しかし、いくら正しいことを教える場合でも、そのたとえ話として明らかに非科学的なエピソードを出してくる、というのは問題なのではないか。しかもここでは、「わかりやすく感動的」というのが「科学的」よりも価値が上にされている。

・自己主張を超えて、相手をやり込めるために、あるいは高揚感を満足させるために拳を振り上げて怒鳴る姿は、それがどんな美女でもジゴロ風の男性でも決して優美ではない。

・理不尽な目にあうことは誰にでも起こりうる。警察や法に訴えるほどではないと判断したときは、災難と思ってあっさり忘れる。

・私たち人間は、やはり扁桃体を発火させてカッカするのではなくて、大脳皮質で相手の気持ちを想像し、知識や経験を参照にしながら思考し、問題を解決していかなければならない。



キレる大人はなぜ増えた (朝日新書 90)

キレる大人はなぜ増えた (朝日新書 90)

  • 作者: 香山 リカ
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 2008/01/11
  • メディア: 新書



タグ:香山リカ
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