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『いまファンタジーにできること』 [☆☆]

・もし黒人の子供、ヒスパニックや(東洋、西洋両方の)インディアンの子供がファンタジーの本を買わないとしたら、それは表紙に自分たちが描かれていないせいではないでしょうか。

・自分が書いているのは――ほとんどの小説化と同じで――人が過ちを犯すこと、そして、ほかの人であれ、本人であれ、誰かがその過ちを防いだり、正したりしようと努めて、けれどもその過程で、さらに過ちを犯さずにはいられないことです。

・(年齢にかかわらず)成熟していない人たちは、道徳的な確かさを望み、要求します。これは悪い、これは善い、と言ってほしいのです。

・わたしは強迫性過読障害なんです。

・眠り姫が目を覚ますと――森番は茂みを払い、庭師は芝生を刈った。なんと悲しいこと! たったひとつのキスで静まり返った館、小鳥の歌う荒野が抹消されなくてはならないのか。

・ファンタジーと未熟さをごっちゃにするのは、かなり大きな間違いだ。合理的だが、頭でっかちではなく、倫理的だが、あからさまではなく、寓意的というよりは象徴的――ファンタジーは原始的(プリミティブ)なのではなく、根源的(プライマリー)なのだ。

・どのブロックにもハンバーガーショップとコーヒーショップがあり、それが際限なくくり返される。「他者」は存在しない。なじみのないものはない。マンデルブロのフラクタル集合におけるように、ものすごく大きなものと非常に微細なものが、まったく同じであり、同じものは常に、同じものへとつながっていく。他者はいない。逃げ道もない。どこかほかのところは存在しないから。

・20世紀に、都市においても必要不可欠な最後の動物であった馬がフォード社製の自動車に取って代わられたとき、一生の間、ほかの種に無関心で、無知なまま過ごすことが可能になった。

・多くの思考が言語に頼っている。「存在しないこと」を言うためには、文法が――統語論や動詞の時制や法が必要になる。

・ものの見方は、冷徹で実質主義だ。彼の見る世界は、猛々しく残酷な世界、ぬくもりのない世界である。狼の道徳は、殺すか殺されるかだ。

・ファンタジー作品では、自分がつくった規則を変えたり、破ったりすると、物語の一貫性がなくなり、つまらないものになる。

・わたしたちは孤立すると気が狂う。わたしたちは社会性に富む霊長類だ。人間には属することが必要だ。

・人の心は怖がりで疑い深いが、それでもなお、もっと大きなものに属すること、もっと幅広いものとひとつになることを渇望する。

・主人公の年齢が12歳より上で20歳より下だったら、その小説はヤングアダルトになるのだ。

・ヒーローと悪漢は同じように傲慢で、競争心が強く、思慮に欠け、残酷です。

・わたしがティーンの頃には、ティーンエイジャーについて書かれたものでなかったら興味がもてないなんて、全然思いませんでした。学校に山ほどいましたから。自分と同じような、ニキビだらけのいやな奴が。

・わたしが知りたかったのは、大人であるというのはどういうことかということです。小説を読むことは、それを内面から知る機会を与えてくれました。子猫は大人の猫ごっこをして遊ぶものです。

・物語が「メッセージをもっている」という考えは、その物語を2、3の抽象的な言葉に縮小することが可能だということを前提にしている。

・善玉と悪玉を見分けるのは難しい。というのは、全員がすべての状況への反応として、またすべての問題の解決策として暴力を行使するからだ。

・無意味な模倣や、きまりきったやり方のくり返しは、あるジャンルが技術をマスターし、テーマを洗練させた場合に必ず起こることだ。



いまファンタジーにできること

いまファンタジーにできること

  • 作者: アーシュラ・K・ル=グウィン
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2011/08/20
  • メディア: 単行本



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