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『「タンポポの国」の中の私 新・国際社会人をめざして』 [☆☆]

・差別の根元はお互いの無知にあります。そしてそれは親が子に言い伝えていくことで抜きがたいものになっていくのです。

・日本のテレビ放送は日本人選手一辺倒で、日本人選手の出場していない競技は、まず放送もありません。出場したらしたで、たとえば水泳でも、もう優勝争いはそっちのけで、アナウンサーは「○○は、7位、7位、いや8位」と絶叫しています。

・スポーツで一番大切なことは、成績がどうのこうのということよりも、プレーを通して、その国の文化、アイデンティティを、相手の国に認めてもらうことだと思います。要するに、ナショナリズムの発現ではなくして、サッカーを通して相手の国の人たちに愛されるということです。

・その民族の文化、アイデンティティは、どんな時代になっても守っていくべきです。でも、ナショナリズムとアイデンティティは違う、まったく別物だということは、はっきりさせておかねばなりません。

・日本でもイチロー、佐々木の活躍に、私も涙を流すほどですが、考えてみればそれは日本人の中に、まだまだアメリカ人に認められていないというコンプレックスがあって、それが彼らの活躍によって癒させている部分があります。

・最近は、日々の苦しい生活を忘れるために、みんなが映画に行っている。それはおかしい。

・映画は芸術であり、アートです。だから、本来映画を見に行ったら、無傷のままで、言うならば、心に何らかの重い衝撃を受けることなしに映画館を出ることなど、あり得ないはずなのです。必ず、大きなショックがあって、それによって見た人の内面が変化する。それが、本来の映画というものだと思っています。

・先輩・後輩という、上下の人間関係も日本独特のもので、これは一種の差別を助長していると言ってもいいと思います。

・16世紀、17世紀に世界を支配したスペイン、ポルトガルが、いまやすっかり没落して見る影もないというのは、明らかにこの両国の国民が、自分個人とその家族のことしか考えず、グループで国のことを考えるということがなくなってしまった結果です。

・人種差別には二種類あって、一つは「レイシズム=人種差別」、もう一つは「ゼノフォビア=外国嫌い」です。

・レイシストは、その人種に対する知識があった上で差別するのですから、根が深い。

・エリートがエリートであることを見せないように装うということは、世界中にあります。ですが、本物のエリートには、隠そうにも隠しきれずににじみ出てくるような知性の片鱗が感じられるものですが、日本の最高学府の学生からは、それがあまり感じられませんでした。

・家庭教育は大事です。どのくらい両親が世界の状況、世界の真実を子供に教えられるかにかかっています。両親から、そうした指摘、刺激、教育がなければ、子供は勉強しません。それはもう明らかです。

・生まれたときの脳味噌の質には、個体差はありません。自分の才能や、ポテンシャルに関しては、誰でも好奇心とちょっとした勇気があれば、素晴らしい科学者、脚本家、パイロットになれる。それには、好奇心がすべてといっていいくらいです。

・タンパク質が必要だというと、すぐ肉ばかり食べる人がありますが、今日の知識では、筋肉にいいのは、実は植物性タンパク質であって、むしろ豆腐や、豆乳、納豆の方がいいのだということを、どのくらいのアスリートたちが知っているかということです。やはり動物性の方がいいと思っている選手が圧倒的でしょう。

・それなりに勉強すれば、日本人でもフランス人でも、なに人であっても漢字は書けます。漢字は日本、中国、朝鮮の人にしか書けないものという思い込みは、一種の差別です。




「タンポポの国」の中の私 ― 新・国際社会人をめざして

「タンポポの国」の中の私 ― 新・国際社会人をめざして

  • 作者: フローラン・ダバディー
  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2001/09/07
  • メディア: 単行本



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