『情報以前の知的作法 踊らされるな、自ら踊れ』 [☆☆]
・むやみに発言したがるものは、言語を発する前に思考する習慣もなく、また人の発言に対してもただ情動的に反応してしまうので、しばしば何の意味もない口論に陥ってしまいます。
・まず、「踊らされないぞ」と頑張らないことです。「~しない」と強く思えば、~してしまうのが人の常なのです。「踊らされないぞ」と思うより、「自らのリズムで踊ろう」と思うことにしましょう。
・ゆっくり思考することが必要です。ゆっくり思考する習慣を失うと、それがそのまま人格形成につながってしまうからです。
・ちなみに感情的に口論している人たちは両者ともに呼吸が浅いのが特徴です。
・パターン学習を徹底して東大に合格して「終了」、というような貧弱な脳になってしまっては何のために東大に合格したのかわかりません。
・バランスがとれなければいい動きはうまれない、バランスが崩れなければ動きはうまれない。動きはその狭間で成り立っている。
・人から教わったばかりのことを自分でよく理解しきらないうちに、行く先々で軽々しく語るのでは知識は自分のものにならず道に棄ててしまうようなものである。
・質問するというのは自分が努力しても理解できないことを相手に問う、あるいは自分の理解が不安な部分を相手に確認するものであって、相手に議論をふっかけるという行為ではありません。
・食卓で中学受験について語る母親をじっと見ながら一瞬目を合わせその目を伏せながら、「母を醜くしているのは……それは希望だった」(『金閣寺』三島由紀夫)とつぶやいたのは未だに最悪だったと大反省です。
・年に10冊も本を読まないのならば、大学に行く意味もないのですが、そういう人はまあ意味なく大学に行っているのでしょう。
・自己形成中に自己確認できるのも読書の魅力です。自分では言語化できなかった部分が言語化されているのに出会うと自分がどう思っていたかが明確になり、また、そう思っているのは自分だけではないのだ、と気づくことで、世界への共感を深めやすくなります。
・本を次々と大量に書いている人たちの新書は、1時間で話せることを5時間かけてだらだら話すといったような、内容の薄いものや、他の本で書いたことを何度も使いまわしているものが多いようです。
・マイルス・デイビスも子供の頃には3枚しかレコードを持っていなかったという逸話が残っています。同じものを徹底的に聴きこむことが彼の音楽体験を豊かにしたのでしょう。
・豊かさとは数量からではなく、常に微妙な差異を感じ取れることから生じると言ってもよいでしょう。
・日本舞踊の稽古では、自由な動きを制約し徹底的に師匠の動きをコピーすることから始まります。しかし、身体はそれぞれに異なるので稽古して上達すればするほど師匠とは異なる身体の特性が表れてきます。そうなるとそれはもはやその人固有の動きとなります。
・いわゆる「頭のいい」人の言葉は、実はただの何かの劣化版にすぎないことが多いように思います。「物知り」で饒舌な人の中身が空っぽに見えることが多いのはそういうことなのでしょう。
・「わからない」ことは恥ずかしいことではありませんが、「わかろうとしない」のは恥ずかしいことなのだと思います。
・自分たちを犠牲者の立場(「騙されていた」という立場)に置くことで自分の責任(政治家を選んだのは有権者であり、騙されたのはメディアリテラシーの欠如も原因であること)を棚上げにして「権威」を批判しているわけです。
・想像力を欠いた感情的反応はしばしば意図に逆行する結果を生むのです。「善意だったのだ」は言い訳になりません。
・自らリスクを背負って起業する若者たちであても、やはり成功者のたどった道をなぞろうとする者が多く、若手起業家たちの発言の同質化は著しいものがあります。
・議論は、それによって自分の意見が変わる可能性を認めているもの同士じゃないとする価値はない。
・見栄をはるのではない、見得を切るのだ。
・考えるのは技術、思い悩むのは「病」。
・震災で倒れたのではなくすでに倒れていたことを震災によって気付かされたのだというのに、まだ自分の周囲が倒れていることに気付かぬ人やすでに倒れていた状態への執着を叫ぶものさえ多い。
・酔って、くだらぬ本音とやらをダラダラ反して共感を求めるやつには、腐った本音を垂れ流すのではなく、きちんと建て前を構築しろと言いたい。
・私は池上彰的な存在(無知な大人のための子供ニュース)を必要としてしまうようになった、あるいはその傾向を助長しつつある現代にこそ、問題があると思うのだが。
・体の一部が痛むとき、その部位は私たちに痛みを与える加害者なのではなく、異常をきたしている他の部分、あるいは全体からの被害者なのだと整体師に教わった。肩の筋肉や関節が痛むときに肩を治療しても一時的に治るがまた再発する。そこでない部分或は全体を治すべきなのだ。
・まず、「踊らされないぞ」と頑張らないことです。「~しない」と強く思えば、~してしまうのが人の常なのです。「踊らされないぞ」と思うより、「自らのリズムで踊ろう」と思うことにしましょう。
・ゆっくり思考することが必要です。ゆっくり思考する習慣を失うと、それがそのまま人格形成につながってしまうからです。
・ちなみに感情的に口論している人たちは両者ともに呼吸が浅いのが特徴です。
・パターン学習を徹底して東大に合格して「終了」、というような貧弱な脳になってしまっては何のために東大に合格したのかわかりません。
・バランスがとれなければいい動きはうまれない、バランスが崩れなければ動きはうまれない。動きはその狭間で成り立っている。
・人から教わったばかりのことを自分でよく理解しきらないうちに、行く先々で軽々しく語るのでは知識は自分のものにならず道に棄ててしまうようなものである。
・質問するというのは自分が努力しても理解できないことを相手に問う、あるいは自分の理解が不安な部分を相手に確認するものであって、相手に議論をふっかけるという行為ではありません。
・食卓で中学受験について語る母親をじっと見ながら一瞬目を合わせその目を伏せながら、「母を醜くしているのは……それは希望だった」(『金閣寺』三島由紀夫)とつぶやいたのは未だに最悪だったと大反省です。
・年に10冊も本を読まないのならば、大学に行く意味もないのですが、そういう人はまあ意味なく大学に行っているのでしょう。
・自己形成中に自己確認できるのも読書の魅力です。自分では言語化できなかった部分が言語化されているのに出会うと自分がどう思っていたかが明確になり、また、そう思っているのは自分だけではないのだ、と気づくことで、世界への共感を深めやすくなります。
・本を次々と大量に書いている人たちの新書は、1時間で話せることを5時間かけてだらだら話すといったような、内容の薄いものや、他の本で書いたことを何度も使いまわしているものが多いようです。
・マイルス・デイビスも子供の頃には3枚しかレコードを持っていなかったという逸話が残っています。同じものを徹底的に聴きこむことが彼の音楽体験を豊かにしたのでしょう。
・豊かさとは数量からではなく、常に微妙な差異を感じ取れることから生じると言ってもよいでしょう。
・日本舞踊の稽古では、自由な動きを制約し徹底的に師匠の動きをコピーすることから始まります。しかし、身体はそれぞれに異なるので稽古して上達すればするほど師匠とは異なる身体の特性が表れてきます。そうなるとそれはもはやその人固有の動きとなります。
・いわゆる「頭のいい」人の言葉は、実はただの何かの劣化版にすぎないことが多いように思います。「物知り」で饒舌な人の中身が空っぽに見えることが多いのはそういうことなのでしょう。
・「わからない」ことは恥ずかしいことではありませんが、「わかろうとしない」のは恥ずかしいことなのだと思います。
・自分たちを犠牲者の立場(「騙されていた」という立場)に置くことで自分の責任(政治家を選んだのは有権者であり、騙されたのはメディアリテラシーの欠如も原因であること)を棚上げにして「権威」を批判しているわけです。
・想像力を欠いた感情的反応はしばしば意図に逆行する結果を生むのです。「善意だったのだ」は言い訳になりません。
・自らリスクを背負って起業する若者たちであても、やはり成功者のたどった道をなぞろうとする者が多く、若手起業家たちの発言の同質化は著しいものがあります。
・議論は、それによって自分の意見が変わる可能性を認めているもの同士じゃないとする価値はない。
・見栄をはるのではない、見得を切るのだ。
・考えるのは技術、思い悩むのは「病」。
・震災で倒れたのではなくすでに倒れていたことを震災によって気付かされたのだというのに、まだ自分の周囲が倒れていることに気付かぬ人やすでに倒れていた状態への執着を叫ぶものさえ多い。
・酔って、くだらぬ本音とやらをダラダラ反して共感を求めるやつには、腐った本音を垂れ流すのではなく、きちんと建て前を構築しろと言いたい。
・私は池上彰的な存在(無知な大人のための子供ニュース)を必要としてしまうようになった、あるいはその傾向を助長しつつある現代にこそ、問題があると思うのだが。
・体の一部が痛むとき、その部位は私たちに痛みを与える加害者なのではなく、異常をきたしている他の部分、あるいは全体からの被害者なのだと整体師に教わった。肩の筋肉や関節が痛むときに肩を治療しても一時的に治るがまた再発する。そこでない部分或は全体を治すべきなのだ。
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