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『弱者が強者を駆逐する時代』 [☆☆]

・小説家というものは、小なる説を書くことを職業としている、だから大なる説は唱えないことがいい。

・作家は一個人に徹するべきであって、複数の人々を代表するという視点を持ってはならないと私は思っている。

・凡庸な個性ではなかなか目の醒めるような悪も犯せない。

・賞味期限を行政が守るという発想とそのシステムの普及が、自分の体は自分で守る、判断は自分でする、という人間に備わった本能の衰退を招いたのである。

・国家を超えた判断と勇気をもって働く人は、どんなことがあっても最後まで国家に守って下さいとは言わないものであった。

・裁判では「疑わしきは罰せず」なのだ、と幼い時から知識として習ってきたのだが、今後は「真実であると断定できないとしても(中略)真実であると信じるについて相当の理由がある」という今回の判決文の中の言い方が、司法の世界でも通用するのだとわかった。

・全くつきあいもない他人に、心理のひだのようなものを推測され、断定され、その憎悪を膨らませられ、世間に公表され、アイヒマンだとさえ言われたら、たまったものではない。それは個人攻撃以外のなにものでもないと私は思う。

・直接相手に言いもせず書きもしなかった心理の経過を、推測であたかも現実にあったごとく描写されることが、司法の世界では人格を冒すことにはならないのだと今度初めて知った。

・この裁判官は、赤松氏に罪を着せた。疑わしきは罰してやれ、という世間にありがちな「素人の情熱」は正当と認められた。

・母に言わせると、お金がない人間がかろうじて気持ちよく生きる方法は、庭と家の掃除をすることだったという。

・これは旧軍の知恵らしいが、もし信用できない水を飲まねばならない時は、「食前、食中、食後に、水を飲むな」という素朴な知恵があったようだ。つまり胃酸を薄めない方途である。

・それと私の体験では、食べすぎないことも重要であった。大食いをすると菌もたくさんお腹に入ることになるだろう、という素人の知恵である。

・個人的な旅は、自分の住む世界から歩み出て、違った空間に出ていくことだ。つまり自分の住んでいる世界を一時的に放棄することを前提としている。もし日常と同じなら、それは大金や時間を割いて行かねばならないものではない。

・旅が自分の予想していたのと違う、という文句は言い訳にはならない。予想とは違う人生を見に行くのが旅なのだから。予想と違うのが嫌だったら、自分の家にいることだ。

・本当に今日食べるものに事欠くようになったら、人々はまず携帯を手放すだろう。町に屯する若者たちが持つのは当然だとしている間は、彼らは経済的に追いつめられていない。

・持って生まれた素質自体は非難すべきものではないけれど、やはりバカは恥なのである。

・バカは、自分の引け目を感じて勉強するか、控え目にしているのが、いつの時代でもよろしいのである。

・七十、八十にもなって、「年寄りが安心して暮らせる生活を」などというたわけたことを言っていて、それで通るのが、日本の弱くて強いお年寄りなのである。

・アフリカの場合、大小は別として同じ部族に所属するというだけで、際限なく人情を掛けてもらえて当たり前だと信じているのだ。端的に言えばそれは、「金をくれ」「援助をしろ」ということだ。

・あなたが何かを手にすれば、みんながそれを分けてほしいと言う。だからどこかで線を引く必要がある。もしみんなを家族として扱ったら、家族なんて存在しなくなってしまう。

・一定の比率で、先天的な奇形の子供も生まれてくる。それは自然界が用意した不思議な犠牲とでも言うべき突然変異で、だから我々としては、そのような子供が、他の子供たちの身代わりにその確率を引き受けてくれたと見なして、大切に遇して育てなければならない。

・子供たちの学校へ行かず、字の読めない大人になる。新聞など生活の中に存在しなくて当たり前だ。事実、私はコンゴでは新聞というものを見たことがなかった。

・理想と現実を混同するのが、日本人の精神的姿勢になった。或いは人に頼り、自分には力がないのに、他人と同じことを要求するのが人権だということになった。

・自分がお金を持っていなければ、他人より貧しい暮らしをしなければならない、と世界中の人が思っている。しかし日本人は、自分が働かなくても、誰かが、三食つき、個室、風呂というレベルの暮らしを与えるべきだと信じ切っている。





弱者が強者を駆逐する時代

弱者が強者を駆逐する時代

  • 作者: 曽野綾子
  • 出版社/メーカー: ワック
  • 発売日: 2009/10/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



タグ:曽野綾子
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