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『賭けるゆえに我あり』 [☆☆]

・ほとんどの大手カシノでは、1枚1万USドル以上の価値をもつものは、円形ではなくて楕円形や長方形をしていて、これを「チップ」とは呼ばずに「ビスケット」と呼ぶ慣わしだ。

・負けを誇大に申告することによって、自分の器量を大きく見せようと試みているだけなのだ。

・勝てば幸運、負ければ実力。これがカシノ賭博における基本原則である。

・何のために、闘うのか? どうして闘うのか? その目的も理念も忘れ去り、ただ闘っているという現実だけが最重要事項となってしまうのである。

・無惨な死は、世界中に公示された。みせしめのための殺人である。人知れず駿河湾に沈めても、意味はない。貸した金は、どうせ戻ってこないのだから。

・ロッククライミングの最も安全な方法は、「三点確保」と呼ばれるものだ。三本の手脚で三つの基点を確保し、一本の空いた手か脚で次の基点を模索する。そうやって、わずかずつ、しかし堅実に頂上を目指す。

・「四点確保」は確かに安全至極なのだが、解決不可能な問題が残る。これはいつまでたっても、絶対に上に行けないのである。そのうち疲れ果て、ずるずると落下する。

・勝ち逃げだけが、博奕の極意。

・パチンコで勝ち、景品交換所で「特殊景品」を交換したなら、「刑法」賭博罪違反である。それが「黙認」されているのは、警察利権が絡むからなのだ。パチンコ台の許認可、プリペイド・カード、「特殊景品」金地金の製造および流通、景品交換所等のあらゆる部分で、警察関連企業に金が流れる仕組みとなっている。

・もっとも有名なのは、自動車のシトロエン社のオーナーだったアンドレ・シトロエンが、当時としては最先端技術を集めた自動車製造工場をバカラの一手勝負で失ったエピソードだと思う。現在の貨幣価値にすると1000億円を超えるものを、わずか数十秒の勝負で、シトロエンは失ってしまった。

・博奕というものを、ごくごく簡単に定義すれば、「合意の略奪闘争」である。それも、暴力を介在させない「略奪闘争」だ。

・アジア太平洋地域にあるハウス(カシノ)では、広東語がバカラ卓での共通語となる。

・それが最善手ではないかもしれないが、自分は堅い手を指す。人間は必ず間違える。だから、敵が間違えるまで待つ。そして、間違えた敵の傷口だけを攻める。それが、必勝法なのだ。

・賭博符牒での「1本」「2本」という値段は、土地によって異なる。通常、関東では「1本」が10万円となる。

・各人が、さまざまな体験を経て、それを分析して納得する。つまり、体験の自覚化である。体験の自覚化こそが、実は「思想」と呼ばれるものである。

・そもそもラスヴェガスの諸カシノだって、「カウンティングすれば勝てる」という幻想を売るために、カウンターを取り締まっている趣すらある。カード・カウンターの存在は、カシノという非日常の時空間を支える、必要な夢なのかもしれない。

・掌が震えている。恐れを持ったら、退くべきだ。これは賭博のセオリー。恥も外聞もなく、尻尾を巻いて逃げる。

・負けそうな勝負には手を出さない。勝てると思うものだけ、やってみる。私はそう心掛けている。勝てると信じた手だって、負けるのだ。負けるだろうと感じる勝負に、勝てっこない。

・多くの賭人たちは、一度到達した高みから、自分の現在位置を見下ろす。「5000ドルも勝ってる」と感謝せずに、「あの時から4万ドルもへこんでる」と考えてしまう。

・感情を持つ人間という「有機」なものが完璧に実行しなければならない必勝法と、「確率の劣位」というどこに転がしておいても有効性を発揮する「無機」なものとの長期間にわたる戦いとなるのだから、結果はおのずと知れていた。

・一回の体験で、人は慣れる。金銭感覚を失う。

・「必敗法」を学び、負ける条件をすべて排除していけば、「必勝」とはならないかもしれないが、賭人はゲームに組み込まれた「確率の劣位」を背負いながらも、なんとかカシノで戦える余地が残されている。

・バカラでの勝ち目は、ケーセンの示す通りには起きない。当然だ。ケーセンはあくまで、過去の勝負の結果を示すものであって、いかなる意味でも、未来の出来事を示唆するものではない。じゃ、なんでバカラ賭人たちは、ケーセンに頼るのか? 実に簡単な理由である。他に頼れるものがないからだ。

・研究書では、博奕の起源を「ご神託」と定める。

・カシノって、祈る場所なのである。教会なんかより、ずっと多くの人間たちが、連日連夜24時間ぶっ続けで祈ってる。

・10万ドルという切りのいい勝利まであとひと息のところに到達していたが、未練を残さない。数字合わせなど試みると、ろくなことがないのは、経験上よく知っていた。

・博奕は慣れなければ、自在に動けない。恐怖を抱いてしまえば、負けるからである。一方、慣れてしまえば、金銭感覚を失う。麻痺する。当たり前に考えれば大金での勝利なのに、それに感動を覚えない。慣れねばならず、慣れてはならず。まったくの矛盾だろう。



賭けるゆえに我あり

賭けるゆえに我あり

  • 作者: 森巣 博
  • 出版社/メーカー: 徳間書店
  • 発売日: 2009/08/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



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