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『不勉強が身にしみる 学力・思考力・社会力とは何か』 [☆☆]

・20世紀初頭の社会進化論者たちは「いつかは貧者はいなくなる」と考えていたが、その理由は「彼らは淘汰され、消えて行くから」であった。

・だいたい戦後日本の親の教育圧力は「勉強しろ」と言うだけで、「自分を見習え」も「自分もいっしょにがんばるから」もないのがふつうである。

・両親に対して「子供にはどんな職業に就いてほしいか」を問う項目もあるのだが、そこでは「子供に任せる」という答えが急増している。これは一見、子供の自由を尊重しているように見えるが、実態は親自身が未来の社会像に具体的イメージを持てず、また自分の職業観に自信を失っているためだろう。

・優れた文学作品を読んで、楽観的思考が身についたり、社交性が高まる人は、ほとんどいない。「文学」によって豊かになる感情とは、自己の内面に深く沈潜する悲観的省察の類の情感であろう。

・よく、学校で習う物理や数学が、その後の実生活で何の役に立つのかという人がいるが、物理や数学で学ぶのは合理的な思考法であって、それは絶対に人生に役に立つ。

・日本は戦争に負けたので、「教育勅語」は学校では教えなくなったが、アメリカは勝ったから、今でも「星条旗の誓い」なのである。

・テストで問うのは「あなたそのものの価値」ではなく、「あなたという人間が他人にとってどの程度、有用であり得るか」にすぎない。

・歴史を記述する行為は「選択」であり、故に常に「作為的」なのである。

・いかなる理想にも与しないという思想は、ニヒリズムではなく、理想が人間のためにあるということ、決して理想のために人間がいるわけではないという当たり前のことを、断じて忘れまいというユマニスムの思想なのである。

・日本の教育、ひいては日本社会に最も欠けているのは、自分自身で考え、理論的にかつ紳士的な態度で議論を尽くすという方法の修練の方だ。思考する訓練を積んでいない者に、よく討議されたわけでもない結論を押しつけるような教育が施されているのが、最大の問題なのだ。

・正しさに取り憑かれた人間は、悪徳におぼれているという自覚を持つ人間以上に始末に負えない。彼らは自分自身をも騙しているからだ。「思想の毒」とは、そうしたものだ。

・満点の取りにくい社会科より満点を期待できる数学を選択した方が行きたい学校に手が届くという判断をする子が増える方が自然だ。しかし、実情はその逆となっている。

・高等数学はさておき、やっぱり算数程度は、必要ではないのか。「就職を希望する会社の面接時間から逆算して、何時に起きて支度をすれば、バスに乗り、電車を乗り継いで、間に合うか」という、数学というより小一算数レベルの計算問題が、自分の頭で解けない者がいる、ともいわれている。

・バブル経済華やかなりし頃、株価を算定するのに、しきりと「含み資産」ということがいわれた。「あの会社は経営利益は上がっていないが、都内の一等地に自社ビルがあり、工場も都内にあるので、その地価を考えると、株価が安い」という発想。しかし、その会社が存続している限り、自社ビルや工場を売却するとは考えられない。したがって含み資産は、会社を解体する時にしか実体化しないと思うのだが、そんな根拠で株価が上がったのである。

・最近でもよく、マンション売りや先物取引屋から電話がかかってくる。運用する資金なんてないのだが、向こうは聞く耳を持たない。ほとんどケンカ腰で、一方的に商品説明をする。それにしても、その言い分はちょっと考えれば辻褄があっていない。彼らは確実に、数学が出来ない人たちだ。

・本当に「数学に詳しい」というのは、「欲ボケしないでデータを読む思考」ができるということである。詐欺まがいの商法に引っかからないためばかりでなく、日常的な情報を正確に理解するためにも数学は大切だ。

・そういうものに引っかかった人は、よく「信じていた」と言う。だが、いったい何を信じていたというのだろうか。いや、実はこの「信じる」という思考そのものが問題なのである。信じるというのは、善良な行為ではなく、思考の停止である。考えるのをやめにして、あとは他人の意見に身を委ねる。それが「信じる」ということだ。そしてしばしば、安易に信ずる者は、被害者になるばかりでなく、加害者にもなってしまう。

・「数学が出来ない人間」が、数学を無味乾燥なものと感じるのは、その数字や数式から何も想像できないからにすぎない。しかしそれができる人もいるのである。ケプラーやニュートンが数式について書いた文章に触れれば、数学的創造力が構成する秩序ある世界の美しさが、われわれにも朧気には「想像」出来る。

・時々テレビで人気の占い師や霊能力者が、何かを言い当てたり、説教をしているのを見かけるが、そこで行われているのは、ちょっと人間観察能力があるカウンセラーなら、誰でも出来ることだ。私としても、「占い」だの「霊感」だのといわずに、「人間観察に優れたおばさんによるズバリ人生相談」と言ってくれれば、納得するのに。しかしそれでは、世間の「信じたい人々」は納得しないのだろう。

・今では、企業の中核となるような専門知識、能力を持った社員は少数精鋭であればよく、その他大勢はいつでも置き換え可能(派遣社員やフリーターでよい)な単純労働者化している。

・漱石が言う「道楽」とは、世間で言うそれとはちょっと違っている。漱石が「道楽」と呼んでいるのは「生き甲斐としての、自分自身が心から納得できる仕事」のことだ。そして「職業」とは、自分のためではなく他人のためにする仕事であり、報酬を得ることを目的にした仕事にほかならない。

・自分で考えるのが面倒だからと、何でも他人に丸投げして考えてもらっていると、ろくなことにならない。他人は決して、こちらのためには考えてはくれない。



不勉強が身にしみる 学力・思考力・社会力とは何か (光文社新書)

不勉強が身にしみる 学力・思考力・社会力とは何か (光文社新書)

  • 作者: 長山 靖生
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2005/12/13
  • メディア: 新書



タグ:長山靖生
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