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『最終講義 生き延びるための六講』 [☆☆]

・私は用事がない限りまず家から出ません。「武士は用事のないところに出かけない」ということを座右の銘として、学校と家と道場を三点移動するだけの生活を長く送っておりました。

・「校舎が人をつくる」と言いましたが、学びの比喩としてこれほど素晴らしいものはないと思います。好奇心をもって自ら扉を押し開けたものに報奨として与えられるものが「広々とした風景」、それも「それ以外のどの場所からも観ることのできない眺望」なのです。

・手持ちの計測機器で計量されないものは「存在しない」と断言する人たちは、その語のほんとうの意味での科学者ではありません。「何かがあるような気がする」という直感を手がかりに、かすかな「ざわめき」を聴き取ろうとする人たちこそが自然科学の領域におけるフロントランナーたちなんです。

・メロディーもリズムも、もう聴こえなくなった過去の空気の振動がまだ現在も響き続け、まだ聴こえていないはずの未来の空気振動が先駆的に先取りされている、そういう「過去と未来」の両方に手を伸ばしていける人間だけが聴き取ることができるものです。

・研究者は自分の研究の意味について、つねに自分自身に向けて問い続けなければならない。学生に「文学研究に何の意味があるんですか?」と問いかけられたときに、制度に安住して、その問いを自分自身の必至の問いとして引き受けたことのない学者は絶句してしまいます。

・頭がいいことはわかります。こちらが知りたいのは、その生まれついてのよい頭を使って「何を」するのか、ということなんです。でも、彼らはそれを「私は頭がいい」ということを証明するために専一的に利用している。その使い方はなんだか根本的に間違っているような気が僕にはするのです。

・人間というのは自己利益のためにはそんなに努力しないんです。だって、どんなに努力しても、それで喜ぶのが自分ひとりだったら、そもそも努力する張り合いがないじゃないですか。「面倒くさいから努力するの止めよう」と思っても、それで迷惑をこうむるのが自分ひとりだったら、踏ん張る気力が湧かない。

・自分の知性が最高の状態にないことに、空腹や眠気や渇きと同じような激しい欠乏感を覚える人間だけが、知性を高いレベルに維持できる。

・学問的生成を担う人間に必要なのは「客観的に測定できない入力」に反応する能力なんですから。「これまでやったこと」ではなく、「これからやりそうなこと」を基準にして学問的生成力というのは考慮されるべきなのだけれど、そんなことを考えている人間は、文科省にも大学にもいません。

・会場に何百人か聴衆がいる中で、「この中で私の話が理解できるのはあなただけでしょう」というような目くばせを送って、互いににやりと笑う。そういう排他的な作法を好む学者が増えてきた。

・子供には球を渡さず、上手なプレイヤーだけでトリッキーなパス回しを楽しんでいるうちに、気がついたらグラウンドも客席も無人になっていた、というのが、日本の仏文の現状じゃないかと僕は思います。

・核兵器は置いてないんだけど、あるように見せかけておく方がずっといい。それなら、コストもリスクもゼロで、抑止力効果だけが期待できる。核兵器のいちばんうまい使い方は「そこに核兵器があるのか、ないのか、周辺国にはわからない」という状態を作り出すことなんです。それが一番安上がりな核抑止力なんです。

・推理というのは、どれだけデタラメな読み筋を思いつけるかという能力だからです。定型的な思考の枠をどれだけ超えられるか。「ありそうもない話」をいくつ思いつけるか。それが推理力の基本に来るんです。いわば、推理力とはどれだけ標準から逸脱できるかを競うことなんです。これが日本の秀才にはできない。構造的にできない。だって、標準から逸脱しないことによって彼らは今日の地位にたどりついたわけですから。

・自殺率に関しては、世界中のすべての国に該当する法則があります。それは、戦争しているときには下がるということです。人間というのは、人を殺すことに忙しいときには自分は殺さない。だから、戦争中はどの国も自殺率が激減するんです。

・自殺率が戦時には下がるということは、平和な時代になると人々は自殺するようになる。

・よく、高校生の頃に「なんで太宰治は俺のことを書くんだ」と言う人がいますね。そういう種類の「妄想」を抱く人がほんとうに多い。でも、これは別に珍しいことではない。「なんで僕の気持ちがこんなにわかっちゃうんだろう」という経験は質の高い文学作品においては必ず発生することなんです。

・文科省が悪いのか、現場が悪いのか、親が悪いのか、それとも子供自身が悪いのか……すべて「犯人探し」に終始している。原因を特定し、現況とおぼしき人や組織をつるし上げてバッシングする、それを教育論であると思っている風潮がありました。

・気が遠くなるほど広大な研究対象が現に目の前に広がっているなら、みんなで手分けしてやるしかない。「猫の手も借りたい」と思っていたら、若い人を叱り飛ばして、「もうやめちまえ」みたいなことを言うはずがない。だから、査定して、格付けして、能力のない人間を追い出すということをやっている学会って、要するに「猫の手も借りたい」わけじゃない、ということですよね。



最終講義-生き延びるための六講 (生きる技術!叢書)

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  • 作者: 内田 樹
  • 出版社/メーカー: 技術評論社
  • 発売日: 2011/06/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



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