『俳句いきなり入門』 [☆☆]
・人間の「言いたいこと」は数種類しかない。それを十七音に入れたら「私を見て」一種類になる。そんなもの作者以外読まない。一方「言いたいこと以外のこと」は無限だ。俳句は自分の意図にではなく言葉に従って作るものだ。
・感動したから書くんじゃなくて、書いたから感動するのだ。
・腕しだいで「ルールのうまい破りかた」もある。ルールは熟知しておこう。うまく破るために。
・「自分の言葉で表現しろ」なんて言うけれど、言葉は本来他人のもの。私たちは全員それを借りて使っている。規則や習慣に従ったくらいで損なわれる「言いたいこと」など、もともとひ弱な「言いたいこと」だ。
・俳人は路上でギターを弾き語りするソングライターではなく、「季語」と「それ以外」という二枚のディスクを選んでつなげるDJだ。
・「まるで~のようだ」という発想は、俳句にするとしばしば幼稚になる。国語の時間に、「月が照っていました」ではなく「お月さまが笑っていました」と擬人法で書くクラスメートを見て「けっ……」と鼻で憫笑する。あなたがそんな可愛げのない小学生だったなら、あなたは俳句に向いている。
・他人の句評を聞いて「そんなふうに読めるのか! 俺気づかなかった……」と思う場合、「この句スゲェ!」という気持ちとともに、「それを読み取ったコイツ、イケてる」という尊敬の念、さらには恋心へと発展することだって十分にある。
・責められるべきは「知らない」ことではない。責められるべきは「わかってないのにわかった気になっちゃった」こと。「これ何だろう」って思って辞書や歳時記を引く。こんな簡単なことが意外にできないものだ。
・近代芸術は、作品と作者の名前がセットになった世界だ。作品は作者の心の叫びだと言わんばかりの、近代芸術っぽい考え方をするのが、国語という科目の特徴だ。
・何年もやっているのに俳句がダメな人には、残念ながらつける薬はない。なぜか。「俳句ってこういうものだ」というガンコな汚れがその人たちの句歴の長さに比例してこびりついているからだ。この人たちは、「俳句とは自己表現である」という国語の授業的な思い込みを訂正されぬままきちゃったのだ。
・地球や諸大陸や大洋がどんな形をしているかを発見するうえで最大の障害となったのは、無知ではなく、自分たちには知識があるという錯覚だった。
・十七音しかない俳句は定食屋の壁に貼られた「おしながき」のように一瞬で目に刺さる。音読なんかしてられない。音読では遅いのだ。句会や本で気になった句は脳内で音声化する。けれどそれは「お、ミックスフライ定食か……」と二度見する程度のものだ。
・俳句は「モノボケ」である。モノボケだったら、舞台にあるモノのどれかを使わなければならない。俳句だったら季語を使わなければならないとか、一定のルールがある。
・二句目(七七)以降は、直前の句に対するレスポンスとしてしか書けないが、発句(冒頭の五七五)だけは、自由に創作することができた。ただし「季語」と「切れ」が必要とされた。奇数番目の平句は五七五で、切れや季語は必須ではなく、人間関係のこと、恋のこと、神仏のこと、なんでも入れることができた。発句以外の五七五部分は、その後独立して川柳となる。
・俳句は一発芸、厳密意に言えばモノボケだ。モノボケを始め、一発芸というものは、見ている人を「わかる人とわからない人」に分けてしまう。俳句でも「その句のよさがわかる人」と「その句のよさがわからない人」が出てくる。これに対して、同じ五七五でも川柳は「あるあるネタ」だ。みんなが理解できるものを目指そうとする。正確に言うと、「みんなが意味がわかるもの」を作ろうとする。
・小説でも美術でも音楽でも、未知のものに出会ったときに脳が一瞬困る状態を体験することで、新しい小説(美術・音楽)観が生まれてきた。
・詩は言葉を純化して直線的に使うモノローグ(ひとりごと)、散文はいろんな言葉が流入し対話する不純なポリフォニー(多声)だ。
・ポテト系は薯、やまいも系は藷の字を使う。
・「俳句って自分を表現するもの」「俳句って風流なもの」などの思い込みがある人は、「既知の着地点」から出られないのだ。
・世の中にはすでにこの300年かそこらでおもしろい小説はさんざん書かれてきて、いまさら新しいのを書こうと思ったら「俺の小説には発表する価値がある」というような少々おめでたいくらいの蛮勇も要ろうというものだ。
・それはちょうど、漫画喫茶で『NANA』『BECK』『デトロイト・メタル・シティ』を読んで「音楽って素晴らしい」と感動するあまり先人のロックをまったく聴かぬまま楽器買っちゃった、みたいな感じ。音楽ではなく、音楽にまつわる物語の主人公としての自分を愛している人が鳴らす音は全員同じなんだよね。
・俳句の定型や切れや季語って、全員に制服を着せたらかわいい子とそうじゃない子が残酷なくらいはっきりわかっちゃう、というような意味であなたの言語センスが測られるのです。
・季語とか歳時記というのはあくまでゲーム上の「約束事」といったん割り切っておくくらいがちょうどいい。
・そもそも二月上旬に「寒いなー、春は暦のうえだけだなー」と毎年言っているこの季節「感」ってもの自体が、「立春は新暦で二月四日ごろから」っていう「言葉」がなければ感じることすらできない。言葉なくして季節感なしと言ってもいいくらいなのだ。
・「文学だからルール破っていいよ」ということにしちゃうと、違犯自体がヌルくなってしまって勿体ない。ダメってことにしといたほうが違犯(イケてる違犯)の価値が高い気がする。アートはなんでもアリですよ、というのが一番アートをヌルくする。
・ふだん使っている手垢のついた言葉は、効率よくパターン化した思考のテンプレートなので、見馴れたものを見馴れたように書くことしかできない。一方言葉が更新されたとき、馴れ親しんできた対象がまるで初めて見る奇異なものに見える。これが異化だ。そのためには、ふだん使いの言葉の外に出るしかない。
・人数のことを頭数と言うでしょう。「人」と「頭」は形が似ているわけではない。「頭」が「人」の一部なのだ。こういうふうに「全体を言わないで一パーツを言う」のは換喩の典型。
・作者と作中の発話主体とを混同するという態度は、このように日本では広く支持されている。これは嘘と虚構の違いを認めないという態度だ。
・感動したから書くんじゃなくて、書いたから感動するのだ。
・腕しだいで「ルールのうまい破りかた」もある。ルールは熟知しておこう。うまく破るために。
・「自分の言葉で表現しろ」なんて言うけれど、言葉は本来他人のもの。私たちは全員それを借りて使っている。規則や習慣に従ったくらいで損なわれる「言いたいこと」など、もともとひ弱な「言いたいこと」だ。
・俳人は路上でギターを弾き語りするソングライターではなく、「季語」と「それ以外」という二枚のディスクを選んでつなげるDJだ。
・「まるで~のようだ」という発想は、俳句にするとしばしば幼稚になる。国語の時間に、「月が照っていました」ではなく「お月さまが笑っていました」と擬人法で書くクラスメートを見て「けっ……」と鼻で憫笑する。あなたがそんな可愛げのない小学生だったなら、あなたは俳句に向いている。
・他人の句評を聞いて「そんなふうに読めるのか! 俺気づかなかった……」と思う場合、「この句スゲェ!」という気持ちとともに、「それを読み取ったコイツ、イケてる」という尊敬の念、さらには恋心へと発展することだって十分にある。
・責められるべきは「知らない」ことではない。責められるべきは「わかってないのにわかった気になっちゃった」こと。「これ何だろう」って思って辞書や歳時記を引く。こんな簡単なことが意外にできないものだ。
・近代芸術は、作品と作者の名前がセットになった世界だ。作品は作者の心の叫びだと言わんばかりの、近代芸術っぽい考え方をするのが、国語という科目の特徴だ。
・何年もやっているのに俳句がダメな人には、残念ながらつける薬はない。なぜか。「俳句ってこういうものだ」というガンコな汚れがその人たちの句歴の長さに比例してこびりついているからだ。この人たちは、「俳句とは自己表現である」という国語の授業的な思い込みを訂正されぬままきちゃったのだ。
・地球や諸大陸や大洋がどんな形をしているかを発見するうえで最大の障害となったのは、無知ではなく、自分たちには知識があるという錯覚だった。
・十七音しかない俳句は定食屋の壁に貼られた「おしながき」のように一瞬で目に刺さる。音読なんかしてられない。音読では遅いのだ。句会や本で気になった句は脳内で音声化する。けれどそれは「お、ミックスフライ定食か……」と二度見する程度のものだ。
・俳句は「モノボケ」である。モノボケだったら、舞台にあるモノのどれかを使わなければならない。俳句だったら季語を使わなければならないとか、一定のルールがある。
・二句目(七七)以降は、直前の句に対するレスポンスとしてしか書けないが、発句(冒頭の五七五)だけは、自由に創作することができた。ただし「季語」と「切れ」が必要とされた。奇数番目の平句は五七五で、切れや季語は必須ではなく、人間関係のこと、恋のこと、神仏のこと、なんでも入れることができた。発句以外の五七五部分は、その後独立して川柳となる。
・俳句は一発芸、厳密意に言えばモノボケだ。モノボケを始め、一発芸というものは、見ている人を「わかる人とわからない人」に分けてしまう。俳句でも「その句のよさがわかる人」と「その句のよさがわからない人」が出てくる。これに対して、同じ五七五でも川柳は「あるあるネタ」だ。みんなが理解できるものを目指そうとする。正確に言うと、「みんなが意味がわかるもの」を作ろうとする。
・小説でも美術でも音楽でも、未知のものに出会ったときに脳が一瞬困る状態を体験することで、新しい小説(美術・音楽)観が生まれてきた。
・詩は言葉を純化して直線的に使うモノローグ(ひとりごと)、散文はいろんな言葉が流入し対話する不純なポリフォニー(多声)だ。
・ポテト系は薯、やまいも系は藷の字を使う。
・「俳句って自分を表現するもの」「俳句って風流なもの」などの思い込みがある人は、「既知の着地点」から出られないのだ。
・世の中にはすでにこの300年かそこらでおもしろい小説はさんざん書かれてきて、いまさら新しいのを書こうと思ったら「俺の小説には発表する価値がある」というような少々おめでたいくらいの蛮勇も要ろうというものだ。
・それはちょうど、漫画喫茶で『NANA』『BECK』『デトロイト・メタル・シティ』を読んで「音楽って素晴らしい」と感動するあまり先人のロックをまったく聴かぬまま楽器買っちゃった、みたいな感じ。音楽ではなく、音楽にまつわる物語の主人公としての自分を愛している人が鳴らす音は全員同じなんだよね。
・俳句の定型や切れや季語って、全員に制服を着せたらかわいい子とそうじゃない子が残酷なくらいはっきりわかっちゃう、というような意味であなたの言語センスが測られるのです。
・季語とか歳時記というのはあくまでゲーム上の「約束事」といったん割り切っておくくらいがちょうどいい。
・そもそも二月上旬に「寒いなー、春は暦のうえだけだなー」と毎年言っているこの季節「感」ってもの自体が、「立春は新暦で二月四日ごろから」っていう「言葉」がなければ感じることすらできない。言葉なくして季節感なしと言ってもいいくらいなのだ。
・「文学だからルール破っていいよ」ということにしちゃうと、違犯自体がヌルくなってしまって勿体ない。ダメってことにしといたほうが違犯(イケてる違犯)の価値が高い気がする。アートはなんでもアリですよ、というのが一番アートをヌルくする。
・ふだん使っている手垢のついた言葉は、効率よくパターン化した思考のテンプレートなので、見馴れたものを見馴れたように書くことしかできない。一方言葉が更新されたとき、馴れ親しんできた対象がまるで初めて見る奇異なものに見える。これが異化だ。そのためには、ふだん使いの言葉の外に出るしかない。
・人数のことを頭数と言うでしょう。「人」と「頭」は形が似ているわけではない。「頭」が「人」の一部なのだ。こういうふうに「全体を言わないで一パーツを言う」のは換喩の典型。
・作者と作中の発話主体とを混同するという態度は、このように日本では広く支持されている。これは嘘と虚構の違いを認めないという態度だ。
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