『下から目線で読む「孫子」』 [☆☆]
・彼は歴史上における具体的な事例については論じない(そもそも固有名詞がほとんど出てこない)。いかなる状況にあっても普遍的に有効であるべきことについてのみ、孫子は語ろうとする。
・上に立つものは、立場上、どうしても勝たざるをえない。そこへゆくと下に居るものは気楽である。ダマすような汚いことをしてまで勝ちたいとは思わない。
・頼んだからには、ゲタを預けるべきである。頼んだ仕事が成功したか失敗したかは、このさい関係ない。頼まれたものなりに誠実にやってくれたのであれば、その結果を云々すべきではない。
・戦争の鍵をにぎるのは「移動」である。人間がゆきかい、物資がゆきかい、情報がゆきかう。たがいに移動の速さと量を競いあっているのである。
・戦わないで降伏させるのが上策で、さんざん戦って屈服させるのは下策である。相手を潰してしまうのではなく、そっくりそのまま吸収し、自分の栄養にしてしまうのである。
・戦争に勝って相手が降伏してきたとしても、降伏せざるをえないような国というのは、いわば不良債権である。そういう重荷を背負うのって、はたして得策なのかしらん。
・日本一の大泥棒は、石川五右衛門でもなければ、鼠小僧次郎吉でもなく、ついに捕まらなかった泥棒である。彼らは捕まったから世間の評判になったのである。
・じっさい正直であるよりも、正直「そうである」ほうが、よほど信用があるのである。バカ正直に、語尾をハッキリさせていうのは、正直であることに溺れているだけである。
・政治という権力ゲームでは、「何が真実か」よりも「何が真実ということになっているのか」のほうが重要である。
・正しいことが通るのは、もちろん正しい。しかし、正しさを通すことは、必ずしも正しいとはかぎらない。
・ムダな九割を知らなければ、大切な一割と出会うことはない。一割と出会うための九割のムダ、それが教養というものである。
・人を手足のようにコントロールするコツは、相手を「その気にさせ続ける」ということである。「これはオレのやることじゃない」と自分の頭で考えたりしないようにさせるのである。
・「努力は裏切らない」というのは真実である。ただし、「長い目で見ると」という条件がつくことを忘れてはならない。
・待つとは、自分を「律する」ということである。これは「ガマンする」のとは違う。律するとは、自らの意思で能動的に自らを抑えることである。ガマンするとは、他人の意見や世間の常識によって受動的に自らを押し殺すことである。
・「金持ちケンカせず」である。たとえケンカに勝ったところで、失うものが多ければ、ソロバン勘定が合わない。
・説明してもムダなものには、説明しないほうがよい。いったん説明してしまうと、相手に「どうして?」と訊き返す余地を与える。訊き返されれば、さらに説明せねばならなくなる。どうしても説明しなければならないなら、説明するに値する相手にだけ説明したほうがよい。
・説明してもムダな上司には、逆らわないほうがよい。「バカだな」と思っても、バカだと思い知らせようとしないほうがよい。
・意地汚い私に向かって、彼はこう諭してくれた。「プライドは守らねばならない。たとえ土下座してでも」と。
・いまどきの学生諸君は、ひどくガキっぽい。教師から叱られると、自分の全人格を否定されたかのように感じてしまう。「まあ、叱られても当然だな」と思えないのである。自分がなぜ叱られたのかを考えられず、ただ「叱られた」という事実に打ちのめされるのである。
・想像力の不足は、ただちに思考力の貧困である。「AならばBである」という硬直した考え方しかできない。「別の考え方もあるかもしれない」という可能性を考えられない。
・国語のテストが苦手だった。点数が取れなかったわけではない。むしろ逆である。「こういう答えを書いてくれ」という出題者の意を体して、それに「心にもないこと」を書いて答えることは得意だったから、いつも良い点を取っていた。それにしても、子供の心を仕切ろうとする国語教育って、なんなのかなあ。
・大勢の命をあずかる責任ある立場にありながら、優しいだけというのは無責任である。「気の毒だけど、しょうがない」という非情さも必要である。
・むつかしい質問をすると、昔の学生は「そうですねえ」と考えてくれたもんだが、今の学生は、それはもう見事なくらい即座に「わかりません」という。「わかる」と「知っている」とは同義なのである。
・考えるとは、誰かの敷いたレールの上を走ることではない。考えるとは、脱線することである。
・人がダマされる原因は、もっぱら「ダマされたくない」という気持ちを利用されることにある。
・下に居るものにとって、「やればよかった」という後悔より、「やるんじゃなかった」という反省のほうが、よほどマシである。
・勉強ができるから東大にゆき、東大を出たら財務省に入り、そこで出世して主計局長になるといった一本道を歩いてゆくと、なにかの拍子に挫折したとたん、ポキリと折れることがある。「あれくらいのことで、どうして?」と驚くほど脆かったりする。価値観のベクトルの持ち合わせが「オレは優秀だ」という一本しかないのである。
・下に居るものは、組織における部品として、おのれの分掌をこなしておればよい。部品の分際ですべてを知る必要はない。
・自分はバカではないと自惚れている人間はバカになれない。バカにかぎって「バカにされたくない」と思うのである。
・偉そうに「おい、何かアドヴァイスしてみろ」といっても、何もいってもらえない。目下のものに「ああ、何か意見をいってあげたいなあ」と思わせるような人格であることが、上に立つもののつとめだろう。
・戦いには「なぜやるか」という理由と「どうやるか」という説明とがつきものである。
・怒りや恨みの正体は、たいてい被害妄想である。怒りや恨みという感情は、「理不尽な目にあった」という被害者意識によって起こる。
・いったん被害者意識を持つと、頭に血がのぼり「相手のほうに非がある」としか思えなくなってしまう。冷静に「自分にも問題があるんじゃないだろうか」とかえりみることができれば、ほとんどの怒りや恨みはおさまるだろう。
・「オレは正当に評価されていない」と不平をいうのは、自信の裏返しである。自分はわかってもらうに値すると思っているから、わかってもらえないと文句をいうのである。自信を持つことは悪いことじゃないが、いちいち他人に認知してもらいたがるのは不粋である。
・上に立つものは、立場上、どうしても勝たざるをえない。そこへゆくと下に居るものは気楽である。ダマすような汚いことをしてまで勝ちたいとは思わない。
・頼んだからには、ゲタを預けるべきである。頼んだ仕事が成功したか失敗したかは、このさい関係ない。頼まれたものなりに誠実にやってくれたのであれば、その結果を云々すべきではない。
・戦争の鍵をにぎるのは「移動」である。人間がゆきかい、物資がゆきかい、情報がゆきかう。たがいに移動の速さと量を競いあっているのである。
・戦わないで降伏させるのが上策で、さんざん戦って屈服させるのは下策である。相手を潰してしまうのではなく、そっくりそのまま吸収し、自分の栄養にしてしまうのである。
・戦争に勝って相手が降伏してきたとしても、降伏せざるをえないような国というのは、いわば不良債権である。そういう重荷を背負うのって、はたして得策なのかしらん。
・日本一の大泥棒は、石川五右衛門でもなければ、鼠小僧次郎吉でもなく、ついに捕まらなかった泥棒である。彼らは捕まったから世間の評判になったのである。
・じっさい正直であるよりも、正直「そうである」ほうが、よほど信用があるのである。バカ正直に、語尾をハッキリさせていうのは、正直であることに溺れているだけである。
・政治という権力ゲームでは、「何が真実か」よりも「何が真実ということになっているのか」のほうが重要である。
・正しいことが通るのは、もちろん正しい。しかし、正しさを通すことは、必ずしも正しいとはかぎらない。
・ムダな九割を知らなければ、大切な一割と出会うことはない。一割と出会うための九割のムダ、それが教養というものである。
・人を手足のようにコントロールするコツは、相手を「その気にさせ続ける」ということである。「これはオレのやることじゃない」と自分の頭で考えたりしないようにさせるのである。
・「努力は裏切らない」というのは真実である。ただし、「長い目で見ると」という条件がつくことを忘れてはならない。
・待つとは、自分を「律する」ということである。これは「ガマンする」のとは違う。律するとは、自らの意思で能動的に自らを抑えることである。ガマンするとは、他人の意見や世間の常識によって受動的に自らを押し殺すことである。
・「金持ちケンカせず」である。たとえケンカに勝ったところで、失うものが多ければ、ソロバン勘定が合わない。
・説明してもムダなものには、説明しないほうがよい。いったん説明してしまうと、相手に「どうして?」と訊き返す余地を与える。訊き返されれば、さらに説明せねばならなくなる。どうしても説明しなければならないなら、説明するに値する相手にだけ説明したほうがよい。
・説明してもムダな上司には、逆らわないほうがよい。「バカだな」と思っても、バカだと思い知らせようとしないほうがよい。
・意地汚い私に向かって、彼はこう諭してくれた。「プライドは守らねばならない。たとえ土下座してでも」と。
・いまどきの学生諸君は、ひどくガキっぽい。教師から叱られると、自分の全人格を否定されたかのように感じてしまう。「まあ、叱られても当然だな」と思えないのである。自分がなぜ叱られたのかを考えられず、ただ「叱られた」という事実に打ちのめされるのである。
・想像力の不足は、ただちに思考力の貧困である。「AならばBである」という硬直した考え方しかできない。「別の考え方もあるかもしれない」という可能性を考えられない。
・国語のテストが苦手だった。点数が取れなかったわけではない。むしろ逆である。「こういう答えを書いてくれ」という出題者の意を体して、それに「心にもないこと」を書いて答えることは得意だったから、いつも良い点を取っていた。それにしても、子供の心を仕切ろうとする国語教育って、なんなのかなあ。
・大勢の命をあずかる責任ある立場にありながら、優しいだけというのは無責任である。「気の毒だけど、しょうがない」という非情さも必要である。
・むつかしい質問をすると、昔の学生は「そうですねえ」と考えてくれたもんだが、今の学生は、それはもう見事なくらい即座に「わかりません」という。「わかる」と「知っている」とは同義なのである。
・考えるとは、誰かの敷いたレールの上を走ることではない。考えるとは、脱線することである。
・人がダマされる原因は、もっぱら「ダマされたくない」という気持ちを利用されることにある。
・下に居るものにとって、「やればよかった」という後悔より、「やるんじゃなかった」という反省のほうが、よほどマシである。
・勉強ができるから東大にゆき、東大を出たら財務省に入り、そこで出世して主計局長になるといった一本道を歩いてゆくと、なにかの拍子に挫折したとたん、ポキリと折れることがある。「あれくらいのことで、どうして?」と驚くほど脆かったりする。価値観のベクトルの持ち合わせが「オレは優秀だ」という一本しかないのである。
・下に居るものは、組織における部品として、おのれの分掌をこなしておればよい。部品の分際ですべてを知る必要はない。
・自分はバカではないと自惚れている人間はバカになれない。バカにかぎって「バカにされたくない」と思うのである。
・偉そうに「おい、何かアドヴァイスしてみろ」といっても、何もいってもらえない。目下のものに「ああ、何か意見をいってあげたいなあ」と思わせるような人格であることが、上に立つもののつとめだろう。
・戦いには「なぜやるか」という理由と「どうやるか」という説明とがつきものである。
・怒りや恨みの正体は、たいてい被害妄想である。怒りや恨みという感情は、「理不尽な目にあった」という被害者意識によって起こる。
・いったん被害者意識を持つと、頭に血がのぼり「相手のほうに非がある」としか思えなくなってしまう。冷静に「自分にも問題があるんじゃないだろうか」とかえりみることができれば、ほとんどの怒りや恨みはおさまるだろう。
・「オレは正当に評価されていない」と不平をいうのは、自信の裏返しである。自分はわかってもらうに値すると思っているから、わかってもらえないと文句をいうのである。自信を持つことは悪いことじゃないが、いちいち他人に認知してもらいたがるのは不粋である。
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