『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』 [☆☆]
・団塊の世代ばかりを手厚く守り、彼らの子や孫はまるでどうでもいい存在であるかのように扱われている現状は明らかにおかしい。
・遺体がいまだ続々と見つかるなか、記者が細かい数字にこだわっていることが不思議に思えた。「今日は何人の遺体が見つかりましたか。数字は××7人で正しいですか」 「××8人ですか」 それが自らの使命であるかのように1ケタの数字に神経質にこだわり、彼らは非常に細かいやり取りをずっと続けていた。
・日本の新聞やテレビは、遺体の写真を一切報道しようとしなかった。だが、「1万人死亡」と数字を見せられただけでは、現場で本当は何が起きているか読者に伝わらない。
・私は被災地で数知れない遺体を見た。それは津波に流されたのだろう、鉄の屋根の上からぶら下がっていたりと、どれもがおよそ想像もつかないシチュエーションにおける悲しい遭遇だった。
・クスリはたくさん持っているが、米国製のため、厚生労働省の許可が下りない限り自由には配れないというのだ。
・せめてカゼのクスリくらい届けられないのかと思い、厚生労働省に問い合わせてみた。すると担当者は「日本で許可されているクスリだったとしても、日本語の説明書がついていなければ配ってはいけない」というのだ。震災という非常事態なのだから、ルールを多少破ったとしても臨機応変に対応するべきではないか。
・記者クラブを拠点にする日本人の記者は、市長や市職員、多くの住民がまだ暮らしているにもかかわらず、南相馬市から逃げ出してしまった。普段は記者クラブを拠点として役所の情報を独占しているのに、最も肝心なときに取材を放り出してしまったのだ。
・日本の大手メディアは、一度クローズアップされた場所を集中して報じる傾向が強い。大槌町を取材する新聞記者と出会わなかったのは、おそらくほかの地域に動員の多くがさかれていたからだろう。
・日本の新聞は、すでに報じられている「わかりやすい場所」に多くの記者を投入するケースが多い。結果、横並びの偏った記事が紙面を埋めることになる。
・自らが疑問を抱き、問題を掘り起こすことはなく、何かしらの「お墨付き」が出たところで報じる。これでは「発表ジャーナリズム」と言われても仕方がないと思う。
・彼が言う特ダネなど、プレスリリースを他社よりも1日早くもらえたかどうかというレベルの話に過ぎない。
・日本経済新聞の紙面は、まるで当局や企業のプレスリリースによって紙面を作っているように見える。言い方は悪いが、これではまるで大きな「企業広報掲示板」だ。
・広告引き上げをちらつかされたからといって批判をやめてしまえば、読者の信頼を失ってしまう。新聞にとって最も重要な財産は読者からの信頼だ。広告引き上げは一時的な収入減のみの問題だが、信頼は情報という「形のない商品」を扱うメディアにとっては生命線そのものだ。
・アメリカでは記事に記者の署名を入れるのは当たり前だし、有名人のみならず一般人も含めて記事中に出てくる人物の発言は実名が基本だ。日本の新聞のように、匿名発言が頻出することはない。
・誰でも書ける「コモディティ・ニュース(commodity news/日常情報記事)」を読みたいのであれば、ヤフーのニュースサイトでもクリックすればいい。オンリーワンの記事を読みたいからこそ、読者はニューヨーク・タイムスを手に取ってくれるのだ。
・現実的ではない左翼的な批判では何も変えられない。
・記者クラブメディアは権力側に寄りすぎているし、雑誌メディアは批判のための批判に終始している。既存のメディアが衰退したのは、そんな現状を人々に見抜かれ始めたことも大きな理由ではないだろうか。
・最終的に社会を良くするための主張を発信するのがジャーナリストの努めだ。
・記者クラブを通じて、これまで情報というエサを与える「飼い犬」であったはずの新聞が、裏ガネ作り疑惑の追及という形で「飼い主」である警察に噛みついてきた。結果、何が起きたのか。北海道新聞は、道警から情報をまったく取れなくなってしまったのだ。
・音楽再生プレイヤーがソニーのウォークマンからアップルのiPodに移り変わったように、いつの時代も人は最も便利で質の良いものを手に入れようとする。朝日新聞や読売新聞、日本経済新聞よりも役に立つ優れたメディアがあれば、そちらに移っていく。
・GHQが日本に民主主義を与えた。日本人自身が、自分たちの力で民主主義を獲得したわけではない。
・市民の手による革命が起きたことがないから、日本の有権者はどこか受け身だ。国に、お上に任せていれば、平和な世の中が築かれると人々は信じている。
・「権力の監視」という本来の役割を果たしていない記者クラブメディアは、権力への正しい批判ができていない。
・遺体がいまだ続々と見つかるなか、記者が細かい数字にこだわっていることが不思議に思えた。「今日は何人の遺体が見つかりましたか。数字は××7人で正しいですか」 「××8人ですか」 それが自らの使命であるかのように1ケタの数字に神経質にこだわり、彼らは非常に細かいやり取りをずっと続けていた。
・日本の新聞やテレビは、遺体の写真を一切報道しようとしなかった。だが、「1万人死亡」と数字を見せられただけでは、現場で本当は何が起きているか読者に伝わらない。
・私は被災地で数知れない遺体を見た。それは津波に流されたのだろう、鉄の屋根の上からぶら下がっていたりと、どれもがおよそ想像もつかないシチュエーションにおける悲しい遭遇だった。
・クスリはたくさん持っているが、米国製のため、厚生労働省の許可が下りない限り自由には配れないというのだ。
・せめてカゼのクスリくらい届けられないのかと思い、厚生労働省に問い合わせてみた。すると担当者は「日本で許可されているクスリだったとしても、日本語の説明書がついていなければ配ってはいけない」というのだ。震災という非常事態なのだから、ルールを多少破ったとしても臨機応変に対応するべきではないか。
・記者クラブを拠点にする日本人の記者は、市長や市職員、多くの住民がまだ暮らしているにもかかわらず、南相馬市から逃げ出してしまった。普段は記者クラブを拠点として役所の情報を独占しているのに、最も肝心なときに取材を放り出してしまったのだ。
・日本の大手メディアは、一度クローズアップされた場所を集中して報じる傾向が強い。大槌町を取材する新聞記者と出会わなかったのは、おそらくほかの地域に動員の多くがさかれていたからだろう。
・日本の新聞は、すでに報じられている「わかりやすい場所」に多くの記者を投入するケースが多い。結果、横並びの偏った記事が紙面を埋めることになる。
・自らが疑問を抱き、問題を掘り起こすことはなく、何かしらの「お墨付き」が出たところで報じる。これでは「発表ジャーナリズム」と言われても仕方がないと思う。
・彼が言う特ダネなど、プレスリリースを他社よりも1日早くもらえたかどうかというレベルの話に過ぎない。
・日本経済新聞の紙面は、まるで当局や企業のプレスリリースによって紙面を作っているように見える。言い方は悪いが、これではまるで大きな「企業広報掲示板」だ。
・広告引き上げをちらつかされたからといって批判をやめてしまえば、読者の信頼を失ってしまう。新聞にとって最も重要な財産は読者からの信頼だ。広告引き上げは一時的な収入減のみの問題だが、信頼は情報という「形のない商品」を扱うメディアにとっては生命線そのものだ。
・アメリカでは記事に記者の署名を入れるのは当たり前だし、有名人のみならず一般人も含めて記事中に出てくる人物の発言は実名が基本だ。日本の新聞のように、匿名発言が頻出することはない。
・誰でも書ける「コモディティ・ニュース(commodity news/日常情報記事)」を読みたいのであれば、ヤフーのニュースサイトでもクリックすればいい。オンリーワンの記事を読みたいからこそ、読者はニューヨーク・タイムスを手に取ってくれるのだ。
・現実的ではない左翼的な批判では何も変えられない。
・記者クラブメディアは権力側に寄りすぎているし、雑誌メディアは批判のための批判に終始している。既存のメディアが衰退したのは、そんな現状を人々に見抜かれ始めたことも大きな理由ではないだろうか。
・最終的に社会を良くするための主張を発信するのがジャーナリストの努めだ。
・記者クラブを通じて、これまで情報というエサを与える「飼い犬」であったはずの新聞が、裏ガネ作り疑惑の追及という形で「飼い主」である警察に噛みついてきた。結果、何が起きたのか。北海道新聞は、道警から情報をまったく取れなくなってしまったのだ。
・音楽再生プレイヤーがソニーのウォークマンからアップルのiPodに移り変わったように、いつの時代も人は最も便利で質の良いものを手に入れようとする。朝日新聞や読売新聞、日本経済新聞よりも役に立つ優れたメディアがあれば、そちらに移っていく。
・GHQが日本に民主主義を与えた。日本人自身が、自分たちの力で民主主義を獲得したわけではない。
・市民の手による革命が起きたことがないから、日本の有権者はどこか受け身だ。国に、お上に任せていれば、平和な世の中が築かれると人々は信じている。
・「権力の監視」という本来の役割を果たしていない記者クラブメディアは、権力への正しい批判ができていない。
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