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『悲しみの子どもたち 罪と病を背負って』 [☆☆]

・子供は「社会の扁桃腺」であるともいえる。子供が示す非行や精神的な障害は、社会全体が病んでいる問題を敏感に察知して、異常を知らせてくれる警報でもあるのだ。

・感情とは、元来、個人のものというよりは、人と人がコミュニケーションするためのものなのかもしれない。人と人は、言葉で言語的につながるというより、言葉や意味にならない部分でつながりあっている。

・境界性人格障害では、気分や対人関係や自己評価が、最高から最低に両極端に変化する。中間がないのだ。

・思い出は単なる記憶の問題ではなく、語られ共有されることによって「思い出」となるのだ。親や兄弟、家族と、こんなだったよとか、あんなことをしたことがあったねと語る中で、思い出は家族に共有され、家族の神話となるのである。

・多動型の子でも、たまに飛びぬけて高いIQの子がいるのだが、学校の成績はさんざんだ。学習というのは知能だけでなく、集中力や持続力に大きく左右される。したがって、せっかく高い知能を持っていても、それが生かせないのである。

・この大人は「本気」だというものがなければ、子供は変わらないということだ。

・怒りや挑発に怒りで反応するのではなく、それを悲しみとして受けとめ、静かに諭す大人の態度が、子供の中に、自分を省みる心を育むのである。

・「私がいけなかったんです。でも、もう反省したから大丈夫です」というふうに、簡単に「反省」して、簡単に「納得」してしまうのだ。

・自分には自分の気持ちというものがなくなっていた。周囲に合わせるのが、自分の気持ちのようなものだから。

・依存型の子では、相手を見極め、自分を危険から守る能力が、小さな子供並みであるため、とても騙されやすいといえる。たとえば、覚醒剤を教えられ、性的に搾取されたにすぎない男を、誰よりも自分のことを理解してくれたと本気で思い込んでしまうのである。

・親は、この子はしっかりしていると錯覚して、本来子供に話すべきでないことまで相談したりする。子供が本当はどう感じているかまで、思いが及ばないのである。

・携帯やメールを通じて、顔の見えない人間とつながり合うことが当たり前となった日常は、知らないうちに悪い大人が子供部屋にまで上がり込んでいる状況をつくる。

・生後数か月まで、脳ではシナプスが過剰に形成されるが、そのうちの使われるものだけが生き残り、使われないものは失われていく。「刈り込み」という現象である。青年期の終わりに脳が完成してしまうまでに、どのシナプスを生き残らせるかは、その子の成長過程での体験と学習にかかっている。

・居場所は、家庭であれ、学校であれ、友人関係であれ、本人が安心して自分が認められていると感じられるところであり、関係である。

・子供が以前と変わってきたな、なにかおかしいなと感じたとき、次のことをもう一度よく振り返ってほしい。子供に余分な心理的プレッシャーをかける対応をしていないか、子供の居場所を奪うような言い方や態度をとっていないか。

・非行少年の特徴を一言でいえば、大きな幼児であるということだ。本来は、幼稚園や小学校の時期に身につけるべき基本的なルールを守ったり、周囲の迷惑にならないように配慮したり、協調して行動したりという社会生活のマナーが、満足に身についていないのである。

・いまや、忍耐など自己主張のできない愚かな人間がすることとみなす風潮さえある。

・薬物濫用をテクノ中毒として捉えた。スイッチ一つで室内温度や湿度を自在にコントロールし、携帯でどこにいても誰とでも瞬時にアクセスすることに慣れた子供たちにとって、心や体の状態を人工的にコントロールすることにも、さして抵抗がない。

・遊びを4つのカテゴリーに分類した。アゴーン(競争)、アレア(運試し)、ミミクリー(模倣)、イリンクス(眩暈)である。アゴーンやアレアについては、特に説明を要しないだろうが、ミミクリーは、たとえば○○ごっこのようなものや劇のようなものが当てはまる。イリンクスには、ブランコ遊びや踊りから、メリーゴーランドやジェットコースターに乗ることもはいるだろう。

・アウトドアの好きな親に、休みのたびに山や谷に連れ出された子供は、親の意図とは裏腹に、アウトドアに辟易している場合もある。親が遊んでいるだけで、子供にとっては本当の遊びになっていないのである。

・大人になる入り口で、程度の差はあれ、子供は「悪いこと」を覚えたり、親に反発する。無邪気な善にいったん別れを告げ、邪悪な心や淫らな心にも目覚めるのだ。

・ゲームでいくらモンスターを撃ち殺し、倒しても、そこに生じるのはスリルとカタルシスだけであって、痛みも悲しみも後悔も生じることはない。攻撃性をコントロールするためのネガティブ・フォードバックは一切かからずに、敵を倒す快感というポジティブ・フィードバックばかりが、攻撃性の使用を歯止めなく強化する結果になる。

・子育てに過剰に熱中する一方で、思いどおりにならない子供を殺してしまうようなバランスの悪さも、自己愛世代の特性が極端になったものといえる。

・子供の能力を開発したり、才能を伸ばすことには熱心でも、子供が他人に迷惑をかけたり、無責任な振る舞いをしたりすることには、寛容だったり黙認したりする。

・昔は勉強ができたので、親はそれが自慢だったんです。自慢はするけど、ほめてもらったことが一度もないんです。

・受容されることと、甘やかされ特別扱いされることは、まったく違うということが本人には理解できず、要求を拒まれると、いままでの受容を見せかけの偽物と考えてしまう。

・否定的な思いを徹底的に並べ尽くすと、その後で、そうばかりでもなかった事実が浮かび上がってくるということは、よくあることだ。一面化された否定を乗り越えるためにも、あらゆる否定的な思いを出し尽くすことは、とても重要なプロセスである。

・親側が一方的に「子供の問題」としてしかみようとせず、わが子に「裏切られた」「ひどいことをしてくれた」と、自分たちの傷にとらわれ、「被害者」になり続けるケースが多いのである。

・認めてもらったり、ほめてもらうことがあまりなかった。ほめてもらえると思うと、さらに上を要求されて。頑張って一つのことをやり遂げても、それを当たり前としか思ってもらえない。

・いま思うと間違っていた。自分のやりたいことだけを主張していた。自分のやるべきことを、やってもいないのに。

・歴史的にみれば、礼や挨拶は、まさに無益な戦いを避けるために編み出された先人の発明だった。

・子供たちに寄ってくるのは、ともすると、同年代の人からはまともに相手にされない危険な先輩ということになる。





悲しみの子どもたち ―罪と病を背負って (集英社新書)

悲しみの子どもたち ―罪と病を背負って (集英社新書)

  • 作者: 岡田 尊司
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2005/05/17
  • メディア: 新書



タグ:岡田尊司
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