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『人に認められなくてもいい 不安な時代の承認論』 [☆☆]

・自分がモノを持っていても、別のモノを見つけると、それが欲しくなる。関心が、自分が持っているモノから、他人が持っているモノへと動くのだ。「ある」ことの快よりも、「ない」ことの不快の方が強いのだ。

・口を開けばアホ丸出し。しぐさがまるで子供。こんな美男美女は意味がない。使い捨ての「美」でしかない。

・喜び(快)を素直に表明するのが人間なら、それを抑えるのもまた人間である。どちらがより人間的かといえば、明らかに抑制する意志、自律する意志の方が、より人間的であろう。

・いまや日本人は全員、消費者はもとより、生徒も患者も「お客さま」になった。犯罪者までもが「お客さま」になった感がある。俺を粗末に扱うと「人権」が黙っちゃいねぇぜ、というわけだ。

・「生まれてきてくれてありがとう」という流行り言葉を得意になって口にする親もいて、気持ちの悪いことである。

・私たちは、謝罪をしている彼らの心の中を覗いているわけではないから、その謝罪の形式を信じ切れない。だから、誰の目にもはっきりと見える形で相手を屈辱の姿勢にさせて、いやおうなく相手の心を恥まみれにしようとするのである。ねらいは相手の心であって、自尊心を打ち砕こうとするのだ。

・相手を土下座させると何がどうなるのか。土下座をされたなら、もうそれ以上、誰も何も言わないし、何も言うことができないのである。

・プライドは、他人に怒らない。自分の不甲斐なさに怒るのである。自尊心は他人に怒ってばかりである。自分にはけっして怒らないのだ。

・人が本当に勇気づけられるのは、自分と同じ立場や境遇の人間ががんばっている姿を見るときだけである。

・他者からどのような承認がなされようと、あるいは逆に、無視され批判されようと、最終的に大事なことは、それを自分の内部で消化した後で、自分で自分のことをどのように認めることができるのかという自己承認の問題である。

・自分のことは自分で承認し、自分のことは自分で批判する。これが自己承認である。

・自分の力をつくしたあとに、「俺はこれでいいんだ」と人にも自分にも言えること。これが自己承認である。

・群れの暴力は孤独な暴力では感じることができない、お祭り的な全能感をもたらす。彼らはただ暴力を振るうだけでなく、それを仲間内でしきりにしゃべり、承認を求め、偉業をほめたたえあう。

・ほとんどの受刑者は、裁判の時に、心にもない反省と被害者・遺族への謝罪の弁を述べていますが、判決後はきれいさっぱり忘れ、思い出すことすらありません。彼らにとって、自らの犯行によって奪った被害者の生命のことは、「既に終わったこと」なのです。

・人間関係の揉め事の大半は、この、沽券や面子にかかわるだの、顔を潰されただの、人前で恥をかかされただの、舐められただの、嗤われただのといった自我の闘争の結果だといっていい。

・人は自分のためには強くなれないが、他人のためなら強くなることができる。これは本当である。自分のためではないという無私と正義があるからだ。

・他人に説教されるのが嫌なら、自分で自分に説教するしかないのである。人から批判されることが嫌なら、自分で気づくことだ。

・一人でランチを食べるみじめな自分を見られたくないと、便所にこもって食べる「便所飯」をする大学生が出現したというニュースがあった。例のごとく、これも少数の事例を誇大に報じたものではあろう。

・一人で死ぬと、あってはならない死というニュアンスで「孤独死」と命名する。





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