『弱くても勝てます 開成高校野球部のセオリー』 [☆☆]
・苦手と下手は違うんです。苦手は自分でそう思っているということで、下手は客観的に見てそうだということ。僕の場合は苦手ではないけど下手なんです。
・地方大会の場合、5回で10点差、7回で7点差が開いているとコールドゲームとして試合が終了する。
・一般的な野球のセオリーは、拮抗する高いレベルのチーム同士が対戦する際に通用するものなんです。
・向いてはいないと思います。僕には向いているポジションがないんです。向き不向きで考えたら、僕には居場所がありません。
・あらゆる可能性は理屈で引き出せる。
・試合が盛り上がる場面で盛り上がっている。こういう時は頭がカーッと熱くなって暴走してしまいますから、あえて冷静にするべきなんです。声を出すのは雰囲気がよくないときに気持ちを盛り上げるため。盛り上がっている時に盛り上がるのは観客のスタンスです。
・「球が来たから打つ」「打ったから走る」という具合に動作を論理づけているようで、それゆえに論理と論理の隙間でついのんびりしてしまうのである。のんびりしていると常に状況に出遅れる。
・「来るな!」というのは割り切った強い気持ちですから。割り切った時点ですでに強い気持ちになっていますから。実際に、そう声を出すというのもひとつの手です。自分から勝負を仕掛けることになりますしね。
・いけないのは「来たらイヤだな」という迷いなんです。不安を引きずったままプレイしちゃいけない。
・「間」は「魔」でもあり、集中力はおろか、下手をすると睡魔に襲われそうになる。
・開成は超進学校であるだけではなく、知る人だけ知る攻撃野球の名門校。目指すは甲子園なのであった。
・せこい野球、小賢しい野球なんてするな。そういう野球が勝つこともある。でもそんな野球が勝ってしまうと日本の野球のレベルは下がっちゃうんだよ!
・「どんなときでも仲間を信じ、自分を信じ、一生懸命プレーします」という学校も。そこまで信じていいのだろうか。後になって「信じていたのに裏切られた」などと揉めるのではないかと私などは心配になる。
・「応援される立場としてふさわしいプレー、態度を心掛ける」という具合で、彼らは野球で勝つことより周囲への気遣いばかりに専念しているかのようなのである。
・とかく学校教育はムダをさせないで、役に立つことだけをやらせようとする。野球も役に立つということにしたいんですね。
・じゃんけんに教育的意義があるなら、勝ちにこだわるとなんか下品とかいわれたりするんですが、ゲームだと割り切ればこだわっても罪はないと思います。
・彼らに意志の確認をするのは骨である。最初から「やりたかった」と言ってくれれば済むところを、客観的描写を徐々に絞り込んでいくことでようやく意志のようなものに辿りつけるのだ。
・外野に赤いコーンを置きっ放しにしているのを見ると、「それをどかせ!」と言うのではなく、「そこにコーンを置いたヤツはコーンを置くことの主旨を理解してない!」と叫ぶ。怒鳴ってはいるが命じているわけではなく、察するに生徒たちの自主性を損なわずに、客観性で追い詰めるのだ。
・1球ごとに実験する。やること自体は同じだが、取り組む考え方を変えるのである。確かに私も「練習」と聞くと漫然とした疲労感を覚えるが、「実験と研究」なら目的意識を感じ、新鮮に響く。
・彼のいう「上半身」とはつま先以外のすべてをイメージしているようなので、それを損なうべきではないだろう。自分でつかむコツとは、人に伝えるためのものではなく、あくまで自分の中の言葉なのだ。
・彼もまた「できる」「できない」の狭間で思い悩んでいた。「できる」ことをしようとするから行動も限定的になるわけで、いっそのこと「全部できないから」と開き直ればよいのではないのだろうか。
・「申し訳ない」とは言い訳ができないという意味なので、覚悟の表明ともいえるだろう。
・よくいえば、彼らには集中力はある。しかし集中するあまり視野が狭くなって注意力を失っているのだ。
・プライドといったって人を蔑むとかそういう低レベルのものじゃない。俺たちはどういう野球をするのか。どういうスタイルでやるのかという考え方に対する自信。それがプライドだ。
・ルールに合意するのは基本ではあるのだが、彼らはルール以外のことまで必要以上に合意を求めているような気がしてならないのである。
・大学受験で緊張するくらいなら大した人生じゃないなと。
・必要なこと、思っていることを声に出す。声をかけられたヤツはそれに反応する。野球の監督がなんでそんなことを教えなきゃいけないんだ!
・部員たちはいつも「僕が」ではなく、「僕は」と言っている。
・「僕は」という言い方をすると、「僕」は僕の中にとどまるような印象がある。例えば「僕は打つ」は僕の中の「打つ僕」が打つような。しかし「僕が打つ」なら、人を押しのけるようで、「僕」は僕の外に働きかける。
・この「が」を使った文章は「現象文」と呼ばれている。現象を客観的に描写した文なのだが、我が事に当てはめると強い意志に転じる。
・地方大会の場合、5回で10点差、7回で7点差が開いているとコールドゲームとして試合が終了する。
・一般的な野球のセオリーは、拮抗する高いレベルのチーム同士が対戦する際に通用するものなんです。
・向いてはいないと思います。僕には向いているポジションがないんです。向き不向きで考えたら、僕には居場所がありません。
・あらゆる可能性は理屈で引き出せる。
・試合が盛り上がる場面で盛り上がっている。こういう時は頭がカーッと熱くなって暴走してしまいますから、あえて冷静にするべきなんです。声を出すのは雰囲気がよくないときに気持ちを盛り上げるため。盛り上がっている時に盛り上がるのは観客のスタンスです。
・「球が来たから打つ」「打ったから走る」という具合に動作を論理づけているようで、それゆえに論理と論理の隙間でついのんびりしてしまうのである。のんびりしていると常に状況に出遅れる。
・「来るな!」というのは割り切った強い気持ちですから。割り切った時点ですでに強い気持ちになっていますから。実際に、そう声を出すというのもひとつの手です。自分から勝負を仕掛けることになりますしね。
・いけないのは「来たらイヤだな」という迷いなんです。不安を引きずったままプレイしちゃいけない。
・「間」は「魔」でもあり、集中力はおろか、下手をすると睡魔に襲われそうになる。
・開成は超進学校であるだけではなく、知る人だけ知る攻撃野球の名門校。目指すは甲子園なのであった。
・せこい野球、小賢しい野球なんてするな。そういう野球が勝つこともある。でもそんな野球が勝ってしまうと日本の野球のレベルは下がっちゃうんだよ!
・「どんなときでも仲間を信じ、自分を信じ、一生懸命プレーします」という学校も。そこまで信じていいのだろうか。後になって「信じていたのに裏切られた」などと揉めるのではないかと私などは心配になる。
・「応援される立場としてふさわしいプレー、態度を心掛ける」という具合で、彼らは野球で勝つことより周囲への気遣いばかりに専念しているかのようなのである。
・とかく学校教育はムダをさせないで、役に立つことだけをやらせようとする。野球も役に立つということにしたいんですね。
・じゃんけんに教育的意義があるなら、勝ちにこだわるとなんか下品とかいわれたりするんですが、ゲームだと割り切ればこだわっても罪はないと思います。
・彼らに意志の確認をするのは骨である。最初から「やりたかった」と言ってくれれば済むところを、客観的描写を徐々に絞り込んでいくことでようやく意志のようなものに辿りつけるのだ。
・外野に赤いコーンを置きっ放しにしているのを見ると、「それをどかせ!」と言うのではなく、「そこにコーンを置いたヤツはコーンを置くことの主旨を理解してない!」と叫ぶ。怒鳴ってはいるが命じているわけではなく、察するに生徒たちの自主性を損なわずに、客観性で追い詰めるのだ。
・1球ごとに実験する。やること自体は同じだが、取り組む考え方を変えるのである。確かに私も「練習」と聞くと漫然とした疲労感を覚えるが、「実験と研究」なら目的意識を感じ、新鮮に響く。
・彼のいう「上半身」とはつま先以外のすべてをイメージしているようなので、それを損なうべきではないだろう。自分でつかむコツとは、人に伝えるためのものではなく、あくまで自分の中の言葉なのだ。
・彼もまた「できる」「できない」の狭間で思い悩んでいた。「できる」ことをしようとするから行動も限定的になるわけで、いっそのこと「全部できないから」と開き直ればよいのではないのだろうか。
・「申し訳ない」とは言い訳ができないという意味なので、覚悟の表明ともいえるだろう。
・よくいえば、彼らには集中力はある。しかし集中するあまり視野が狭くなって注意力を失っているのだ。
・プライドといったって人を蔑むとかそういう低レベルのものじゃない。俺たちはどういう野球をするのか。どういうスタイルでやるのかという考え方に対する自信。それがプライドだ。
・ルールに合意するのは基本ではあるのだが、彼らはルール以外のことまで必要以上に合意を求めているような気がしてならないのである。
・大学受験で緊張するくらいなら大した人生じゃないなと。
・必要なこと、思っていることを声に出す。声をかけられたヤツはそれに反応する。野球の監督がなんでそんなことを教えなきゃいけないんだ!
・部員たちはいつも「僕が」ではなく、「僕は」と言っている。
・「僕は」という言い方をすると、「僕」は僕の中にとどまるような印象がある。例えば「僕は打つ」は僕の中の「打つ僕」が打つような。しかし「僕が打つ」なら、人を押しのけるようで、「僕」は僕の外に働きかける。
・この「が」を使った文章は「現象文」と呼ばれている。現象を客観的に描写した文なのだが、我が事に当てはめると強い意志に転じる。
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