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『秘宝耳』 [☆☆]

・露出する量を少なくすることは、巨泉の持つ「つまらなさ」も「嫌な感じ」も「いらない」も少量しか感じさせないということでもある。

・味覚感知に優れていてもおいしそうな顔ができない人と、味などわからないが自由自在においしそうな顔ができる人とでは、後者のほうがテレビ上では秀でた「食べ芸人」である。

・四十万の掃除機を買ってしまった失敗を、自分でも失敗と気づいているからこそ、その掃除機は特別なものであると訪問販売員のセールストークをなぞるように「特別な機能」を復唱してみる。

・しかし、人間というのは慣れるものである。本当に慣れる。もっとすごいのは、慣れていなかったことのことを忘れてしまうことだ。

・内輪ネタと言ってもいいはずなのに、首をつっこむ人数が多いと、内輪な感じが薄れるわけだ。

・まあ、テレビの芸能活動というのは、すべて売名行為と言い換えることもできる。

・どちらも「売れてるからってナメんな」と、テレビのお灸をすえられたわけである。松田聖子はすえられたお灸で血行が良くなって帰ってきたのに、田原俊彦はなあ。もぐさの火種が引火して焼けちゃった感じだ。

・メディアの中でできあがった自分像を、自らなぞってしまうのである。すると世間(見てる側)は、これまでメディアを通して認識してきたその選手像を、「あ、本当なんだあ。思ったとおり」と確認する。選手は、またそれをなぞる。

・どこを取っても「ばか」に間違いはない。しかし、「ばかだからダメ」というあまりに単純すぎる判断を下す勇気がなかったのだ。「ばかだからダメ(嫌い)」という判断を下すこと自体、「ばか」みたいではないかという恐怖心のせいであろう。そうやって否定することを放棄したのである。

・問題なのは子役からの脱出口が「おとな」ではなくて「おんな」に通じてしまったところだ。

・リポーターは「下々の民」になりきって思い切り「スター」の「豪邸」を羨望のまなざしで見上げる。しかし、「豪邸」に住む「スター」が無尽蔵にいるはずもない。「これってスター?」「あれって豪邸?」という逡巡を吹っ切るためにも、リポーターはさらに目線を低くして見上げるのであろう。

・テレビはその「コメント」だけを伝えるわけではなく、「コメントをしている状況」を伝えるメディアだから。

・総合すると、これは知ったかぶり親父のスポーツ論だ。それはカンベンだろう。

・年寄りの冷や水、切り替えスイッチの鈍化(ネジ数本紛失)としよう。

・「良識派」として乱れた世の中に眉をひそめてみせている、くらいのつもりなのだろう。こういうのがいちばんやっかいなのかもしれない。悪意もないし、その思考・発言が否定されることを予測もしていないんだろうし、良識派ばか。困惑、である。

・テレビなんて、流れてくるもの(番組・情報)を勝手に消費すればいいのであって、流している側の思惑なんてつきあう必要はない。




秘宝耳

秘宝耳

  • 作者: ナンシー関
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 2001/01
  • メディア: 単行本



タグ:ナンシー関
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