『エラい人にはウソがある』 [☆☆]
・ホントにダメな人って、ダメをこじらせてるから、自分がダメだって自覚がないんです。
・寝たきりや認知症になってしまった老人は出てきません。そうなっても親孝行できるのか、ってことまで孔子の考えは及んでいない。実感がないから、親に尽くせときれいごとを並べるばかり。
・戦乱の世に、非暴力・平和主義を貫くなんて、ポンコツな人にしかできませんよ。
・ダメを許せない人が、老いてダメになった親を軽蔑したり虐待したりするんです。ダメな人間を認めよう。
・『論語』を読んだからといって、道徳心や人間力が向上することを期待してもムダ。もしも『論語』にそんな効能があるのなら、中国はとっくの昔に世界一の道徳国家になっていたはずです。
・なにも結果を残せなかったダメおじさんが、死後に伝説を捏造され、偉人・聖人としてまつりあげられ、儒教関係者たちに都合よく利用されてしまった──それが歴史的に正しい孔子の実像です。
・ソクラテスも思想家ではありません。本業は彫刻家です。哲学的な議論をするのが好きな彫刻家のおじさんですから、本を書いて後世に名を残そうなんて気はさらさらなかったのかもしれません。
・近年、アメリカの社会学者が、割れ窓理論のような活動は、ニューヨークではほとんどおこなわれてなかったことをあきらかにしました。犯罪減少は、ニューヨーク市警の組織改革によるものだったのです。
・ご年配のかたにはありがちなのですが、若いことに学んだ古い知識が無効になっていることを知らず、いまの現実に当てはめて、とんちんかんな結論を導き出してしまいます。
・昔は、よその県で子供の誘拐事件が起きても、地元でしか報じられませんでした。他の地域の人は事件のことなど知らずに普通に暮らしていました。それが今は、テレビの全チャンネルが全国津々浦々の事件を朝から晩まで繰り返し報じるために、犯罪が激増し、治安が悪化したかのように錯覚してしまうのです。
・孔子はこういっています。自分の祖先の霊でもないのにまつったりするのは間違った礼法である。そして、正しいまつりかたを知っててやらないのも、勇気にかける行為である。これだけです。「義を見てせざるは勇なきなり」は、祖先の霊を正しくまつりなさいよと戒める発言だったのです。
・人民の権利が存在せず、独裁政権しかなかった孔子の時代には、独裁者にいい人になってもらおうとする考えは、あながち間違いではありませんでした。でも、民主主義が存在する現代では、孔子の政治思想をありがたがるのは無意味です。
・努力は必ず報われると考えるのは危険です。そう考える人は、報われてない人を見たときに、あいつは努力が足りないのだから自業自得だ、困っていても助けてやる必要はない、と冷酷に突き放すのです。
・偉人しか尊敬できない子供は、偉人でない人間を軽蔑し、ダメで役に立たない人間は排除してもよいとすら考えるようになりかねません。
・有名どころだと『枕草子』でも、一個所だけ孔子について言及しています。
・『源氏物語』にも一個所、孔子が登場します。いえ、正確にいうと登場はせず、「孔子の倒れ」ということわざとしての間接的な登場です。
・孔子の倒れ、あるいは孔子倒れ(くじだおれ)ということわざは、孔子のような聖人でも恋愛となると、あやまちを犯してしまうのだ、という意味です。
・意外かもしれませんが、本来の大和魂とは、思慮分別のある行動をとれる精神のことだったのです。
・人間にとって大切なのは、知恵を使って生き残ること。大義や正義なんてくだらないロマンのために命をなげうって戦うのは愚かな行為として蔑まれました。
・明治時代になって牛肉の消費が増えると、安い馬肉に「午肉」と表示し、牛肉と思わせて買わせる詐欺商法が流行しました。
・死んだら死んだでしかたがない。人間はいつか死ぬのだ。そういういい意味でのあきらめとともに生きていくのが、仏教の無常観であり、『老子』『荘子』にも似た傾向が見られます。
・くまモン、ふなっしーが当たれば日本中ゆるキャラだらけになるんです。流行を生み出すのは、ごく一部の人だけです。世の中のほとんどの人がやっている仕事は、ヒットしたものをマネかアレンジしてるだけにすぎません。
・故きを温ねて新しきを知る、という孔子の教え通りには運びませんでした。故きをたずねるのは、新しいものを受け入れられない古い人たちばかりなんです。
・なぜか人間は、いいことにも悪いことにも理由を欲しがります。理由がないと不安になるんです。理由なき犯罪、ってのをどういうわけか人は恐れるのです。
・動機や理由のある顔見知りに殺される危険性のほうがはるかに高いにもかかわらず、人は見知らぬ相手に理由なく殺される通り魔被害に遭うことのほうを恐れるのです。
・幼い子供が殺された事件の犯人は、大半が親なんです。なのに世間の親たちは、子供が不審者に理由なく殺されることばかりを心配するのです。
・いうことを聞かない子供を叩くのはしつけとして許されるけど、いうことを聞かないジジイを叩くと老人虐待だ! と批判されます。
・つまり、立場の強い者が無礼な弱い者を殴るのは許すけど、立場の弱い者が無礼な強者を殴るのは許さないというのが、体罰容認論者のルールなんです。
・現実には、世間からヘタレと笑われようが平和主義に徹するのは、なかなかできることではありません。たいていの人は他人からバカにされ続けると、カッとなって暴力をふるってしまうものです。
・寝たきりや認知症になってしまった老人は出てきません。そうなっても親孝行できるのか、ってことまで孔子の考えは及んでいない。実感がないから、親に尽くせときれいごとを並べるばかり。
・戦乱の世に、非暴力・平和主義を貫くなんて、ポンコツな人にしかできませんよ。
・ダメを許せない人が、老いてダメになった親を軽蔑したり虐待したりするんです。ダメな人間を認めよう。
・『論語』を読んだからといって、道徳心や人間力が向上することを期待してもムダ。もしも『論語』にそんな効能があるのなら、中国はとっくの昔に世界一の道徳国家になっていたはずです。
・なにも結果を残せなかったダメおじさんが、死後に伝説を捏造され、偉人・聖人としてまつりあげられ、儒教関係者たちに都合よく利用されてしまった──それが歴史的に正しい孔子の実像です。
・ソクラテスも思想家ではありません。本業は彫刻家です。哲学的な議論をするのが好きな彫刻家のおじさんですから、本を書いて後世に名を残そうなんて気はさらさらなかったのかもしれません。
・近年、アメリカの社会学者が、割れ窓理論のような活動は、ニューヨークではほとんどおこなわれてなかったことをあきらかにしました。犯罪減少は、ニューヨーク市警の組織改革によるものだったのです。
・ご年配のかたにはありがちなのですが、若いことに学んだ古い知識が無効になっていることを知らず、いまの現実に当てはめて、とんちんかんな結論を導き出してしまいます。
・昔は、よその県で子供の誘拐事件が起きても、地元でしか報じられませんでした。他の地域の人は事件のことなど知らずに普通に暮らしていました。それが今は、テレビの全チャンネルが全国津々浦々の事件を朝から晩まで繰り返し報じるために、犯罪が激増し、治安が悪化したかのように錯覚してしまうのです。
・孔子はこういっています。自分の祖先の霊でもないのにまつったりするのは間違った礼法である。そして、正しいまつりかたを知っててやらないのも、勇気にかける行為である。これだけです。「義を見てせざるは勇なきなり」は、祖先の霊を正しくまつりなさいよと戒める発言だったのです。
・人民の権利が存在せず、独裁政権しかなかった孔子の時代には、独裁者にいい人になってもらおうとする考えは、あながち間違いではありませんでした。でも、民主主義が存在する現代では、孔子の政治思想をありがたがるのは無意味です。
・努力は必ず報われると考えるのは危険です。そう考える人は、報われてない人を見たときに、あいつは努力が足りないのだから自業自得だ、困っていても助けてやる必要はない、と冷酷に突き放すのです。
・偉人しか尊敬できない子供は、偉人でない人間を軽蔑し、ダメで役に立たない人間は排除してもよいとすら考えるようになりかねません。
・有名どころだと『枕草子』でも、一個所だけ孔子について言及しています。
・『源氏物語』にも一個所、孔子が登場します。いえ、正確にいうと登場はせず、「孔子の倒れ」ということわざとしての間接的な登場です。
・孔子の倒れ、あるいは孔子倒れ(くじだおれ)ということわざは、孔子のような聖人でも恋愛となると、あやまちを犯してしまうのだ、という意味です。
・意外かもしれませんが、本来の大和魂とは、思慮分別のある行動をとれる精神のことだったのです。
・人間にとって大切なのは、知恵を使って生き残ること。大義や正義なんてくだらないロマンのために命をなげうって戦うのは愚かな行為として蔑まれました。
・明治時代になって牛肉の消費が増えると、安い馬肉に「午肉」と表示し、牛肉と思わせて買わせる詐欺商法が流行しました。
・死んだら死んだでしかたがない。人間はいつか死ぬのだ。そういういい意味でのあきらめとともに生きていくのが、仏教の無常観であり、『老子』『荘子』にも似た傾向が見られます。
・くまモン、ふなっしーが当たれば日本中ゆるキャラだらけになるんです。流行を生み出すのは、ごく一部の人だけです。世の中のほとんどの人がやっている仕事は、ヒットしたものをマネかアレンジしてるだけにすぎません。
・故きを温ねて新しきを知る、という孔子の教え通りには運びませんでした。故きをたずねるのは、新しいものを受け入れられない古い人たちばかりなんです。
・なぜか人間は、いいことにも悪いことにも理由を欲しがります。理由がないと不安になるんです。理由なき犯罪、ってのをどういうわけか人は恐れるのです。
・動機や理由のある顔見知りに殺される危険性のほうがはるかに高いにもかかわらず、人は見知らぬ相手に理由なく殺される通り魔被害に遭うことのほうを恐れるのです。
・幼い子供が殺された事件の犯人は、大半が親なんです。なのに世間の親たちは、子供が不審者に理由なく殺されることばかりを心配するのです。
・いうことを聞かない子供を叩くのはしつけとして許されるけど、いうことを聞かないジジイを叩くと老人虐待だ! と批判されます。
・つまり、立場の強い者が無礼な弱い者を殴るのは許すけど、立場の弱い者が無礼な強者を殴るのは許さないというのが、体罰容認論者のルールなんです。
・現実には、世間からヘタレと笑われようが平和主義に徹するのは、なかなかできることではありません。たいていの人は他人からバカにされ続けると、カッとなって暴力をふるってしまうものです。
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