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『いつだって大変な時代』 [☆☆]

・観測史上、かつてない暑さだ、と連日のように報道されている。史上最高と聞くと、特別な時代を生きている気分になれて心地いいのだ。

・私たちは、とにかく「自分が特別だ」と思いたいのである。その延長線上として、「特別な自分が生きているいま」は特別であってもらわないと困るのだ。

・80年代の入り口では、日本はまだ貧しかった。80年代の出口では、世界に冠たる金持ちになっていた。

・60年代も70年代も、ふつうにみんな貧乏だった。60年代の小学校の授業では「日本は中進国です」と教えてもらった。

・つねに「他人の作った社会に居続けている」感覚が、いまの日本を形作っている。

・バブルは、はっきり言っておくが、あれは、貧乏人の祭りであった。貧乏人の祭りでしかなかった。

・経験していない者は「あとから勝手に語られた事実」からしか、その時代を見られない。

・一部の人が警鐘を鳴らしているときは、事態はまだ頂点に達しておらず、誰も何も言わなくなったときは、本当にやばいときなのだ。

・何度も地獄を見てきた連中は鼻が利く。現場で大事なのは鼻を利かせる能力であって、頭が良くったって何も使えない。

・被害者に戦争を語らせても、あまり意味がないでしょう。とにかく「戦争は悲惨だから、あんなことは二度としてはいけねえだ」という言葉が出てくるだけである。

・プラナリアは、きれいな水でしか生息しないので、水道水で飼ってはいけない。いけないというは、水道水に漬けると、死んじゃうのだ。

・プラナリアが死なない水を飲んでいた昔は、そこからいろんな病いを引き受けていたのだ。プラナリアがいつも紛れ込んでいる水を飲まないように奮闘努力した結果が、いまの上水道だ。

・台風はあきらかにいま擬人化されていて、擬人化というよりはゴジラとかモスラとかそういう擬怪獣化されている。

・科学的手法を取るといまの人たちは信じやすいから(これはおそらく教育によるものだろう)それの形を借りているだけで、中身は、科学的ではない。

・私は、さほど悪意のないペテン師にすぎないということだ。だから人が信じやすいスタイルに敏感なだけなのだ。

・科学は万能ではない。万能どころか、常に限界を示して無理だ無理だと言い続けているのに、人は漠然と大きな期待を持ってしまっている。

・3D。飛び出す映像。繰り返し繰り返し、まるで詐欺商法のように、「飛び出す映像」は提供され続けている。

・飽きるが繰り返す。ここには発展はない。循環があるだけだ。まるで輪廻転生を見ているみたいである。

・停滞する社会というか、循環する社会では、村の長老の意見は大事であった。でも、発展してゆくと信じている社会では、若者の感覚が偉い。若者が偉いのではなくて、若い感覚が偉いのである。

・便利さは、あきらかに身体性の喪失につながるわけで、つまり便利は、頭が身体に勝とうとしていることでしかない。

・かつてのような「ほんとうに子供が一人きりでおつかいに行っている映像」では、大変危ないではないか、という抗議がいくつか来たらしいのだ。この場合のクレームは、子供を心配してのことではない。クレームの方向は「子供のことを心配してしまう私の心労をどうにかしろ」ということである。子供の危険を心配している体を装っているぶん、かなり暴力的なクレームである。

・死に対する距離感にも、濃いものと薄いものがある。濃い距離感とはつまり「自分もいずれ死ぬ存在である」と意識して生きている考えであり、薄いものは「とにかく死は避けたい」とだけ考えているものである。

・若者に飲ませる「飲みやすい酒」を売ることによって、酒はみんなで分けて飲むものから、個人でひとつずつ頼むものになった。

・かつては集団で営まれていたものを、分解すれば、それは商品の買い手がどんどん多くなる。つまり商品は売れる。具体的に言えば、昭和の昔は、テレビも電話も、家庭に一つあれば事足りていた。

・テレビも電話も個人ユースのものになり、便利にはなった。でも、家族はきれいに解体された。便利になったときに、いろんなものを分解したのだから、老人が多数孤独死しはじめてから慌てても、もうしかたがない。

・名付けは、基本、切る行為であるから、あらたな存在を生み出す力がある。

・本来、命名には意味はない。意味はないが、力はある。命名する人が力を持っており、その力でもってその「命名されたもの」を他から引き離すのであるから、その名前には「引き剥がされたときの力」が宿る。

・ある程度の型があって、その型の中での自由さ、というのが、もっとも楽な自由なのである。われわれが本来もとめているのは、そういう自由さである。

・落語家のセリフに「きちんと型を演じられるものがその型を突き抜けることが型破り、定型の型さえ持ってないものがその型を崩すと形無しになる」というのがある。

・無縁社会を嘆く人たちの立ち位置が、昔はみんな私たちと同じ有縁社会の人ばかりだったのに、なんでこんなに無縁の人が多くなったの、という不安にかられたものであるのが、どうも腑に落ちない。

・長くわずらうよりもぽっくりいきたい、というのは、有縁社会の余裕のある人もよく言っていることである。一人で生きていて、ぽっくり死んだから、そのまま放置されて、一か月後に腐爛した状態で見つかるわけである。

・死穢というのは、「お葬式から帰ってきたら家に入る前に塩で清める」というところに端的に出ているものなので、これは別に死を忌避しているわけではない。

・死は、そのままにしておくと日常生活に忍び込んでくるから、それを断ち切るという原始的行為が死穢であって、だから死を清めるという形であらわれる。

・死穢は「死の存在は認めるが、日常生活に入らせないための方法」であるのに対して、忌避は「死をないものとしたいし、できれば遠くにあるものとしたい」という気分でしかない。似ているようで、違う。

・若い男性を、戦時の有無にかかわらず全員、軍隊に入れて軍事訓練を経験させる、ということは、つまり「身体性」を意識させ、常に使えるように基本的な手入れをさせておく、という意味で、とても有効なのだな、ということがわかる。

・インターネットもツイッターも、べつだん21世紀らしい叡智を結集してくれるわけではなく、安政の大地震のおりに神田明神に集まって騒いでいた連中と言ってることは、おそらく変わりがない。

・安心できる言葉を出せるのは、だから本物の政治家でしかない。

・インテリの人たちも慌てている。慌てている人たちの言うことは、まあ聞かないほうがいいんだけれど、こっちも慌ててるから、慌ててる者同士の波長があって、言葉が入ってきてしまう。

・放射線は目に見えない。音も聞こえない。しかも被曝したところで、その瞬間は何も感じない。身体的反応をまったく感じないのに、身体が毀損されるという、そういうことに対する「頭の中」でのパニックである。身体性が欠如しているから、頭の中でしか考えられず、より恐怖感を増してしまう。

・「国民全員が同じように騒いでいるのに、何だか妙だなと思ったときは、みんなと同じように動かないほうがいい」という鉄則が私の中にはある。

・みんなが「騒いで」いるのは、騒ぎたいから騒いでいる、ということが多くて、それは、だいたい不安だから大きな声で喋っているに過ぎない。

・「まじに行動しないとやばいとき」は、まず、人は騒がない。黙って行動する。まじにやばいときは、すっと人が消える。そういうものです。

・情報を隠蔽するな、と声高に叫んでいる姿は、つまり「おれにも特権的に情報を知らせておくれよ」という欲望の裏返しにしか見えません。

・善意に満ち、すべての人の幸せを考え、誰の不幸も望まない、とてもすばらしい信念を持った人たちの個人的な発言は、たとえそれが善意に満ちていようと、間違っていたときつまり嘘だった場合に、その嘘の責任をとるつもりで開示されていない。だって善意だから。

・大東亜戦争中のことを考えるのだけれど、あの時代、もし反戦とか忌戦の態度を保とうとしたら「ひたすら不真面目」であるしかないわけで、まじめに動いたら、それはすべて戦争協力でしかないですよね。

・わが国で大きな流れができているときにそこで反抗しようとするなら、不真面目さしか有効性がないのだろうな、と思う。

・速読術というものがある。おそらく、あまり本を読むのが好きではなく、それでいて読まなければいけないという強迫観念の強い人が身につけたがっているのだと思う。

・物語には意味はない。映画も、小説も、細部が楽しいのである。作家は細部にこだわる。神は細部に宿る。

・小説に個性があるとすると、その物語にではなく、身体性にある。その文字と文章の連続性を自分のものとして読み続けることによってのみ動いてくる「頭の中のリアルな身体性」にしか小説の存在価値はない。

・日本社会に住むわれわれは、どこまでも「科学」とはよそよそしく接しようとしている。「科学」はどこまで行っても、「大事なお客さん」のようなもので、大事にするけど、仲間にはならないという、田舎の社会における「まれ人」のような扱いをしていて、「ちょっとした神様」でしかないってことですね。



いつだって大変な時代 (講談社現代新書)

いつだって大変な時代 (講談社現代新書)

  • 作者: 堀井 憲一郎
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2011/07/15
  • メディア: 新書



タグ:堀井憲一郎
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