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『友達の数は何人? ダンバー数とつながりの進化心理学』 [☆☆]

・近代的な軍隊では、最小の独立部隊は中隊だ。中隊はふつう戦闘小隊3個と司令部、支援部隊で構成され、ひとつの戦闘小隊は30~40人の兵士が所属するから、中隊の人数は合わせて130~150人となる。

・共同体をまとめているのは仲間に対する義務感と相互依存だが、150人より大きい集団ではそれが効力を失ってしまう。

・社会的ネットワークは、3の倍数で構成されている。

・友人と知人の区別は、こちらが相手をどう思っているかで決まる。いっしょに時間をすごしたいと思うのが友人で、都合が良いからたまたまいっしょにいるのが知人だ。

・血縁かどうかを決めるのは、共通の祖先の有無ではない。むしろ未来の世代に対して共通の利害を持っているかどうかだ。義理の関係にあたる相手を親族と見なすのも、遺伝的な利害が同じだと考えれば納得がいく。彼らが残す子供は、自分たちの子孫になるからだ。

・音楽は感情をかきたてる。その力は無遠慮で原始的ですらある。兵士を団結させ、戦友意識を育てるには歌がいちばん効果的であることは、新兵を鍛える鬼軍曹ならみんな知っている。

・女たちの会話はもっぱら社会的ネットワークのためにある。たえず変化する社会のなかで、複雑な人間関係を構築し、維持していくためには会話が欠かせない。

・男の会話は自己宣伝が大きな目的だ。男がしゃべるのは自分のことか、自分のよく知っていることばかり。オスクジャクの尾羽と同じである。

・男は自分自身の人間関係や経験を話すことが多いのに対し、女は他人について話したがる傾向がある。

・知識の共有は、コミュニティの会員証みたいなものだ。「へたくそなミッドオンが落球しやがった」という私の言葉を瞬時に理解した人は、クリケットを実際にプレーするか、クリケット観戦が盛んなコミュニティ出身ということになる。

・男性受賞者が救出した(あるいは救出しようとした)のは若い女性が多く、女性受賞者が救ったのは血縁関係にある子供だったのだ。言いかえれば、女性はわが子を生かすため、男性は子づくりのチャンスを増やすためにわが身を危険にさらしたということになる。

・社会的地位には偏りがあった。ヒーローになるのは裕福な男性ではなく、社会経済的に下層に属する男性なのである。

・世界のほとんどの人は、ミルクを飲むと体調が悪くなってしまうのだ。彼らは病気などではない。むしろ異常なのはミルクを平気で飲めるほうなのである。現生人類のなかで、ミルクの乳糖を分解する酵素、ラクターゼを分泌する人はごく一部だけだ。

・赤ん坊のときは誰でもミルクを飲んで消化している。ところがラクターゼ分泌に関わる遺伝子は、離乳期とともに働くのをやめてしまうのだ。それ以降はミルクと乳製品は消化できないものになり、無理に摂取すると最悪の場合生命にも関わることになる。

・栄養不良に苦しむ貧しい人びとに、アメリカ政府がミルク支給を思いついたのも当然の成りゆきだ。ところが結果はまるで逆になった。ミルクを飲んだ黒人の子供たちは下痢を起こし、体重が減るいっぽうだった。科学者たちは首をひねりながら原因を探った。そして判明したのは、離乳後に新鮮なミルクを消化できる能力は、いわゆる白人人種であるコーカソイドと、サハラ砂漠南縁に暮らす一部の牧畜民にしかない事実だった。

・アフリカの飢饉を救うために粉乳を送ることが賢明かどうか、これでわかるだろう。そんな状況で大量のミルクを人びとに飲ませたら、事態は悪化するに決まっている。

・X染色体が欠けたYoはありえない。Y染色体はとてもちっぽけだ。しかもそのDNAはごく一部しか機能しておらず、初期設定の女モードを男モードに切りかえる仕事をするだけ。だからX染色体がないと、そもそも初期設定が成立しないので、残念ながら強制終了ということになる。

・カメやワニは、卵がかえるときの周囲の気温で性別が決まる。しかもワニは暖かいとオス、涼しいとメスになるのに対し、カメはその逆。

・つわりを解消するために、効果の疑わしい薬が処方されたことがある──サリドマイドだ。医者連中はいつだって目先の症状しか見ない。サリドマイドはたしかにつわりを止める効果があったが、その先の影響を誰も考えなかった。

・親と医療者の思惑が一致して、「できるかぎりのことはやるべきだから」という理由がまかりとおっている。未熟だけならまだしも、ほかに問題がある赤ん坊だと事態は深刻だ。無言の圧力に屈して、重度の障害を抱えた赤ん坊を救った結果、聖人君子でも背負いきれない重荷が何十年にもわたって家族にのしかかることになる。

・「できることはやるべきだ」と肩ひじ張ることが、倫理的に正しいのかどうか。医学が人間の強い欲求の言いなりになっていいのか。

・14世紀末、ポルトガルでは分割相続をやめて長子相続になった。最大の理由は土地不足である。ところがわずか数世代で、ポルトガルは別の悩みを抱えることになる、土地を相続できなかった次男以降の息子たちがグレはじめたのだ。解決策として選ばれたのが、海外雄飛をうながすこと。ヨーロッパの大航海時代は、食いつめた若い貴族たちが扉を開いたと言ってもいいだろう。

・貧しい国々では、天然資源を乱獲する誘惑といつも隣りあわせだ。今日を明日につなげることがせいいっぱいで、未来のことなんて二の次。青々と繁る木々を眺めながら餓死するぐらいなら、木を痛めつけて生きのびるほうがまし。

・マルサスの予想はまちがっていない。化石燃料の消費量が増えることや、廃棄物や余剰物をところかまわず捨てることがどうというより、とにかく人間が毎年どんどん増えていくことがまずいのである。

・伝統的な狩猟・採集社会は、むかしも今も自然にやさしかったという意見がある。残念ながらその主張は誤りであることが裏づけられている。そうした社会が自然を守っているように見えたのは、人間の数が少なくて、無茶をやっても環境が破壊されなかっただけだ。

・突然変異というめくらめっぽうなプロセスで、どうやって複雑な世界ができあがったのか。それを証明できないことが、インテリジェント・デザインのそもそもの出発点(世界をデザインした絶対的知性の存在)を裏づけている。こうした主張は、単純な人たちにはとても説得力がある。

・ID(インテリジェント・デザイン)で困るのは、支持者の多くが自然史をちゃんと勉強していないことだ。IDの荒唐無稽ぶりを物語る実例は身近にいくらでも転がっているのに、彼らはそれを知らない。さらにID支持派は、ダーウィン進化論も正しく理解していない。

・キリスト教にかぎったことではなく、イスラム教もまた進化論の受けいれに抵抗している。コーランに書かれていない進化論が正しいと主張することは、全知の神への挑戦であり、冒涜なのである。

・私たちは何を、どこまでやれるのか。それを決めるのは私たちが用意する問いかけしだいであり、知識が積みあがっていくにつれて、そうした問いかけは複雑なものになっていく。

・動物に言語、あるいは文化があることを証明しようとすると、そのたびにゴールポストの位置がずらされる。最初は道具を使えるのが人間ということになっていたが、道具を使う動物の存在が明らかになると、今度は道具をつくれるのが人間だという定義に変わった。

・人間は自尊心があるにもかかわらず、善だけでなく悪に対しても、また醜悪なものに対しても追従することがある。

・宗教は人生を過ごしやすくしてくれる。少なくとも、運命に翻弄されてもあきらめがつく。マルクスが「人民のアヘン」と呼んだゆえんである。

・脳内鎮痛剤であるエンドルフィンが分泌されるのは、そこそこの痛みが慢性的に続いているときだ。宗教儀式には、身体にある程度のストレスを強いるものが多いのだ。歌ったり踊ったり、蓮華坐を組んだり。そしてここが肝心なのだが、エンドルフィンには免疫システムが万全に機能するよう「チューンナップ」する働きがある。つまり信仰心が篤い人ほど健康になれるということだ。

・三次志向意識水準まで発達すると、「神は私たちに正しくあれと望んでいる」という表現になる。これが個人レベルの信仰である。そこへ別の誰かを引きこもうと思ったら、相手の心理的な立場を意識して「神は私たちに正しくあれと望んでおられるのですよ」と語りかけなくてはならない。こうして四次志向意識水準に達したところで、宗教は社会的なものになる。

・五次志向意識水準、つまり「神は私たちに正しくあれと望んであられるのを、私たちは承知しているはずである」となると、相手がイエスと答えれば、すなわち信念を共有していることになる。ここではじめて宗教は共有されるのだ。

・宗教を共有するには五次志向意識水準までが不可欠なのだが、ほとんどの人にとって志向意識水準はそこまでが限界である。

・人間の営みは、道具づくりにしても、複雑にからみあった社会で地雷を避けながら渡りあるくにしても、だいたい二次か三次の志向意識水準までで片がつく。

・愚かで意地きたない少数意見のせいで、全員がつまらない目にあうのは賢明ではない。

・教育は精神を鍛え、探求心をかきたててくれるものなのに、そうした価値が評価されなくなっている。

・専門的な知識を詰めこむだけが教育ではない。いかに考え、証拠や反証をどう扱うか、先入観や偏見にとらわれることなく、客観的に問題をとらえるにはどうするか──その訓練を積ませるのが教育だ。

・科学軽視派の多くは、高学歴で専門職についている人たちだ。人文科学の学位を持っていて、教師や研究者もいれば、芸術家や文学者、さらに困ったことに政治家もいたりする。

・彼らが共通して抱く科学への反感は、科学者は非文化的できめこまかい感性に欠けるという評価から出発している。

・ルネサンス的教養人はいまも健在だ。ただし人文科学の研究室をのぞいてもお目にかかれない。彼らは理系学科の教室で、実験作業台に向かっているはずだ。

・私たちは詩人と科学を結びつけることはあまりない。しかし、偉大な詩人とただの語呂合わせ屋のちがいは、優れた科学者と凡庸な科学者のちがいと同じではないだろうか──それは鋭い観察眼と深い内省があるかどうかである。

・私たちは誰でも、行動のかなりの部分を記憶に頼っている。直感に頼る思いつきだけでは、科学は前進しない。

・どんな研究分野であっても、重要なのは人文科学の世界で言うところの「学識」だ。もったいぶった言いかただが、要するに記憶力である。

・科学の進歩は、異なるできごとやものごとを新しい方法で結びつけるところからはじまる。

・ラテン語が頭脳を鍛える手段として優れているのは、構造が緻密で体系的だからだ。ラテン語を学ぶことで、記憶力だけでなく、科学を探究するうえで必要な思考モードも身につく。



友達の数は何人?―ダンバー数とつながりの進化心理学

友達の数は何人?―ダンバー数とつながりの進化心理学

  • 作者: ロビン ダンバー
  • 出版社/メーカー: インターシフト
  • 発売日: 2011/07
  • メディア: 単行本



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